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18年前の「公共造園」考
 18年前の「公共造園」
1991年バブル経済の先行きが怪しくなり始める直前の原稿である。
過激・過当な競争入札の実施によって、当時思いもしなかった状況が設計者達を襲っている。
平成の名園を造るどころではないと言われそうであるが、だからこそ名園・名庭を公共空間に造り、造園の特殊性・専門性・文化性を社会に訴え、安い、悪い、やり直し、と言う税金の無駄づかいをなくすよう改善する運動につなぎたい。

 公園・緑地・オープンスペースなど、公共造園空間の整備は、20世紀末にいたって急速な伸びを示し、地球規模での環境への関心の高まりがいっそうこの現象に拍車をかけるといった状況のなかにわれわれはいる。このような中で、われわれ公共造園などの設計に直接的にかかわっている立場から、どのような視座をもつべきか、特に、平成時代の名作といわしめる作品を創出する為に必要と思われる考え方について、私見を記してみた。
1、公共造園の理解
公園・緑地・オープンスペースは、公共造園と総称されるように、公に開放されたものである。庭園のように個人がオーナーの好みによって自由になる空間を取扱うのとはおのずから異なり、不特定多数の利用者が、公平に、永続的に、安心して利用できる内容、質が求められる。特殊な芸術的意図のみに偏在したプロジェクトはともかくとして、一般的には、デザインの対象地を、「国土の生態的基盤」「国土の美学的視座」から深く理解して、この相互の総合的調和を計りながらデザインを進めることが必要である。いたずらに奇を衒うことはさけなければならない。デザインの節度・礼節が求められる所似である。

2、「作庭家」の目
公共造園のデザインは、芸術家個人の思想を絵画や形にしていく純粋芸術とは異なることを認識しなくてはいけないと考える。個人の学・術・知・感性をはるかに超えた総合力が求められる。中には、地域的広がりのある対象も多く、幅広い専門知識を必要とする。個々に輝く個性を持ちながら、深い洞察力と専門知識を持った人々のチームによる力の統合化が求められる。これらにチームの力を十分にクリエイティブに発揮できるようにするゼネラルな目を持ったデザイナーが必要であることに気付くべきである。
このことは、庭園を造るときに、それぞれ個性を持った植木・岩石などの個性を理解して美しく組み合わせて名園に仕上げる「作庭家」の目と同じと言える。

3、自然の営みへ参加する心
私は、公園・緑地などの公共造園空間は、広場などとは異なり、生物的空間秩序が保たれていなくてはならないと考える。
「造園家」「ランドスケープ・デザイナー」と自称する人は、自然との接触頻度を高くしなくてはならないと思う。カタログ的知識を使って頭の中のみで自然の素材を組合せた図面を書くだけでは心の通った名作は生まれない。生命体である植物などを素材とするわれわれの仕事は、動の美学の追求であり、それは自然やその事象を含め、時間と共に環境づくりをしていく、プラスの美学の担い手として、自然の営みにいかに参加していくかという謙虚な態度が重要だとも考える。自然の営みや国土を良く理解せず、自己主張のみの奇を衒った空間は、所詮人間の頭の中で考えられたものにすぎず、人間の考えたものである以上一見複雑に見えても人間の頭脳の枠をなかなか越えることはできない。われわれの仕事は、自然を畏怖しつつ、自然の営みに参加させてもらいながら、生物の一員として、人々の生命に活力をあたえることができる空間を創出していくことであろう。

4、デザイン環境の改善の必要性
日本の造園家達は今、世界の中で、最も広汎多岐にわたる仕事にかかわりを持っていると言うことができる。国土スケールのもの、リゾート、地域、都市、広場、プレイロットにいたるデザインのみならず、環境アセスメント、各種催事計画にいたるまで誠に変化に富んでいる。これらの仕事に関与する日本の造園家は、(社)日本造園コンサルタント協会関係者だけでも三千名近い、しかし、現在のわが国の公共造園の需要に答えきれていない。かつて予想もしなかった量の仕事に恵まれながら、じっくりと作品性の追求に時間を費やす仲間があまりにも少な過ぎる。せっかく名作を創出するチャンスを放棄しているようにさえみえる。こんなに安い設計料では……時間が足りない……等々。クリエイティブな活動をするのにはあまりにもデザイン環境は良くないことは私も同感であるが、その前に良い仕事をして社会に問いかける意気込みが必要ではないか。ここでニワトリと卵の議論をする気はないが、私は若き日に自ら選択したこの道を、とにかく良い仕事の創出に絞っていく考えできた。
この道すでに30年、今頃になって……と笑われそうであるが、この歳月を経て確かな手がかりを感じられるこの頃である。しかし、これからは、もっと若き日に良い仕事ができるような仕組みをつくらなくてはならないと思う。もっと早く、若い人々が先頭に立ってデザインをリードしていける下地を私は造らなくてはと心がけている。
 最近の若者は、われわれの青春時代に想像できなかった恵まれた科学や文化環境の中にあり、大地にかかわる情報量もとても私達と比較できるものではない。
今後、スムースに現代の若者が社会に新しいデザインを公表できるデザイン環境改善も必要である。

5、造園評論の重要性
このところ、各種の造園関係の出版物が定期的に手にすることができるようになった。目を見張るばかりに多くのプロジェクトが発表されるようになった。しかし、依然として、どちらかといえば自画自賛的な記事が目立つ、平成の名作といわれるような公園の出現を側面から促す為にも、厳しい批判精神を持った評論が必要かと思う。そのことが公共空間の質を高め、国の顔ともいえる緑の文化の品位を高めることに貢献できると考えている。

(1991.4.1)
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by harutokobayashi | 2008-03-25 12:17
長崎県立植物園2
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by harutokobayashi | 2008-03-16 15:53
長崎県立植物園
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年月を経て落ち着きの出てきた植物園。
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by harutokobayashi | 2008-03-16 15:47
ラムサール条約
ラムサール条約
ラムサール条約と尾瀬  
ラムサールセンター事務局長 中村玲子女史の講演から(2008・12・23)
ラムサール条約とは、
特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約
Ramsar,Iran1971
The Ramsar Convention on Wetland
1971年水鳥と湿地の保全に関する国際会議をIran Ramsarで開催した。
このときに端を発している。
しかし、その前1960年にMARが発足していた、湿地の意味のMarshの略
1962年フランス・カマルグ IUCN,IWRB,ICBPの会議があった。
1970年、条約の中身が論じられ、水禽の保護区のネットワーク、湿地生態系保全
等の検討を経てラムサール条約へと展開した。
1968年、最後の詰めをすることになっていたが、1968年ソ連のチェコ侵攻によって、1969年予定していたソ連会議をボイコット、その後ソ連の積極的な動きによって会議を再開、この会議はイランで開くことにし1971年条約成立となった。
1993年第5回大会を釧路で開催、以後 1996年ブリスベン、1999年コスタリカ・サンホセ、2002年バレンシア、2005年ウガンタカンパラ、2008年10月28日~11月4日勧告で開催予定
現在157カ国が加盟、1702箇所、1億5千3百ヘクタールの面積となっている。
アジアでは29カ国が加盟している。

湿地の賢明な利用
湿地の賢明な利用とは持続可能な開発の趣旨に沿って、生態系アプローチの実施を通じて達成される湿地の生態学的特長の維持のことを言う。

湿地wetlandの定義には各種あるが干潮時水深6m以下の海域
湿地のタイプ。
海岸性内陸湿地  12タイプ
内陸湿地     20タイプ
人工湿地     10タイプ
国際的基準は9つあるが中の一つに水鳥が定期的に2万羽以上飛来する地となっている。
今これらのほかに湿地の文化的評価について議論しているが非常に客観的判断が難しい。
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by harutokobayashi | 2007-12-24 15:44
叙勲の一日
叙勲
2007年11月3日新聞で秋の叙勲名簿が発表された。私の場合、旭日小綬章が授与されることとなり、専門工事振興の功績ということであった。
11月9日 国土交通省叙勲者334名の伝達式が、グランドプリンス赤坂の五色の間で執り行われることとなり、旭日小受賞者9名を代表して、冬柴鉄三国土交通大臣から勲記・勲章を受け取った。「日本国天皇は小林治人に旭日小受賞を授与する 皇居において璽をおさせる 」 というものである。
家内と共に壇上に上がったが、事前にその時の所作についてメールでメモが送られており、さらに当日式典進行担当者から丁寧な説明を受けていたので、全体の流れは理解していたがやはり緊張するものである。
伝達式会場は10時から受付、10時30分から式典、11時40分くらいまで1人1人の名前が呼ばれ、そのつど大臣は会釈され大変な重労働だと感じ入ったしだい。
12年前の褒章の時には、会場も建設省の大会議場であり時間もそんなにかからなかったように思う。とにかく12時50分から午後4時近くまでトイレがないということで、朝から水分を控えて、皆さんこの点が一番気になったことと思う。
伝達式の後は、紅白饅頭と昼食の箱寿司を国土交通大臣からいただき、それぞれ軽く寿司などを食べて、12時50分に再度会場集合、13時に国土交通省関係者が15台のバスで皇居へ、わずか15分で皇居到着、その後14時30分までバスの中で待つ。
バスを降りて、豊明殿へ向かう。29段の階段を登り左手に栗石を敷き詰めただけの中庭を見ながら右手宮殿へ、14時50分左手前の引き戸が開き、侍従、天皇、侍従長の順で天皇陛下が会場にお見えになった。中央壇上に天皇が御立ちになったとき一同礼をし、代表が感謝の辞を述べる。すぐ後に天皇陛下のお言葉「このたびは叙勲おめでとう。皆さんはそれぞれの道で国のため、社会のため、人びとのために努力されたことに対し、感謝します。これから皆さんは体に気をつけ、それぞれの道でご精進ください。というような内容であった」を賜り、後天皇陛下は会場を一巡なされ退席、2メートル近くで拝謁したときの陛下の目の下は黒く隈が出ており、お疲れのご様子であった。公務が激務であることをうかがわせた。天皇というお立場も中々大変なことであるなということを痛感した。その後叙勲者は豊明殿を背に記念写真を撮り、御下賜の御品としてドラ焼き(菊焼残月)3個と皇室アルバムをいただいて、15時30分にバスでホテルに戻り解散
それぞれ記念写真の撮影などホテル内は混雑した。
この日のために全国各地からお見えになった方々はさぞ大変なことであったと思う。
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by harutokobayashi | 2007-12-11 22:12
黒川紀章
「黒川紀章とゴッホ美術館」
2007年11月15日は黒川紀章さんの告別式が行われている日である。多くの友人お弟子さん、最愛の妻若尾文子さんに見送られてさぞかし盛大な式になっていることだろ。
この日、KL862便(12時10分成田発)でアムステルダムに向かった私は気流の関係で到着予定16時10より40分くらい早くスキポール空港に着いた、空港から東京駅のモデルとなったセントラルステーションまで電車で約15分、今回はファンゴッホ美術館の作品を見る予定をしていたので美術館近くの小さなホテルで一泊することとし、黒川さん設計の美術館とゴッホの作品に触れた。
TVなどですでに紹介されていたことであるが、ゴッホが日本から多くの版画やイラストブックを入手所有して、その実物が展示されているのを見ることができるのは日本人として嬉しかった。今ではこの種の資料の大半は日本国内ではその多くが焼失したりして所在不明になっているものが多いことだろう。
美術館としての展示空間も余分なものをそぎ落としたスッキリしたもので、鬼才といわれた黒川さんらしい作品である。なんとなく日本的な雰囲気がある。
学芸員も黒川さんの事をよく知っていて、なくなられたことを話すとびっくりしていた。
日本人建築家としてこのように歴史に残る仕事をされたことに敬意を表しながら、短時間の作品鑑賞であったが良い時間が持てた。ゴッホがパリに出る以前の作品の暗さ、以後の明るさ、1人の芸術家の軌跡が明確に理解できる展示である。また訪れよう。
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by harutokobayashi | 2007-12-06 18:12
アフリカの思い出
劇団四季・ライオンキングとアフリカの思い出
11月4日1998年以来、無期限ロングランを突き進む「ライオンキング」を観劇した。
私は、アフリカには3回行っており、劇場空間の演出、特に人間がキリン、象、インパラ、ミーアキャット、イボイノシシ、ハイエナ、ハゲタカ、そして主役のライオンなどいずれも野生動物の生態を抽象化し芸術的にして、それなりに雰囲気が出ていて驚かされた。
私の場合、1回目は1973年多摩動物園長、上野動物園長を退任された林寿郎先生とレークマニュアラ、ウンゴロンゴロ、セレンゲテイ、などのほか数箇所ケニヤ、タンザニア、の野生動物保護区を回り、2回目には1975年JICAのエコツーリズムの専門家として、タンザニアのキリマンジェロ、ムコマジ野生動物保護区などの計画に従事、広大な原野をセスナ機で移動しながら多くの動物たちにあった。3回目は1993年南アフリカの国立公園でのIFLA会議に参加、ヨハネスブルグからクルマで5時間ほどの国立公園内の会議場ならびに宿舎が、動物保護区内のコッテージであったため、夜など猫科動物の目が宿の明かりにきらりと反射して光ったり、近くの池にはカバの親子がいて、夜ともなると窓の下の草を食む音がしたり、1週間の滞在が退屈しないですんだ、早朝はみなでトラックに乗りサファリを楽しんだ。会議の後、麻酔銃を持ったレンジャーの案内で原野を歩いた体験は特に印象が強く、サバンナの王国プライドランドのムファサ王が、スカーの陰謀でヌーの群れの中で命を落とす場面など、よく実感できた。特にライオンキングの劇場空間のイメージは、アフリカの野生動物の牙、足、体型など具象的な形で建築物に導入されているロストシテイ(サンシテイ)と呼ばれる巨大なリゾートに良く似ているように思えた。
今回のライオンキングを見た前日は、小学校1年生の孫娘が通う小学校の文化祭を見たが、体育館全体の空間演出が実に自由で豊かな発想に満ち溢れていて感動的であったが、美術担当の先生が幼子らの発想をたくみにアレンジして空間化した力量には敬意を評したしだいである。このような学習体験がやがて劇団四季の劇場に繋がってくるのだ、と勝手に想像するとなんとも楽しい思いに浸ることができて楽しかった。(2007・11・5)
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by harutokobayashi | 2007-12-05 02:46
同時代人
「同時代人」(11月2日増補)
昨晩新宿で久しぶりに仲間5人と飲む機会を持った。参加していた人の年齢は70歳、66歳、63歳、49歳?30歳?と言う構成であったにもかかわらず、何気なく私は、我々同世代はと発言したとき、49歳の頭脳明晰なる男性からすかさず我々は同世代ではないでしょう。「同時代人」と言ったほうが良いですよと注意を受けた。
確かに70歳の随分ぼやけた頭の持主の私と一緒の世代にされたのではたまらない。
と言う意味でも、これは失礼と訂正した。
それと共に「同時代人」と言うことについて考えた。同時代に同じ空気を吸って、同じニュース、同じアートに触れたりと年齢の差を意識せず、生活環境を共有していることの意味は深いものがあると考える。
人類の歴史に影響を与えたと言うより歴史を彩ってきた人々の「同時代人」を今後注意して観察してみようと考えた。
たとへば、フランス革命をはさんだ時代は、貴族社会の姑息で閉塞的な社会に対しての新しい波が、正に疾風怒涛となって押し寄せた時代といわれ、世界史をにぎやかにしている。このような変革期には確かにすごい人たちが活躍していた。
ゲーテ(1749~1832)
シラー(1759~1805)
ベートーベン(1770~1827)
ナポレオン(1769~1821)
日本の文学界で名作を残した作家はどうだろうか
明治以降名作を残した日本の作家(誕生年順)
森鴎外 (1862~1922)
伊藤左千夫(1864~1913)
尾崎紅葉 (1867~1903)
夏目漱石(1867~1916)
幸田露伴 (1867~1947)
田山花袋 (1871~1930)
樋口一葉(1872~1896)
島崎藤村 (1872~1943)
泉鏡花 (1873~1939)
有島武郎 (1878~1923)
永井荷風 (1879~1959)
志賀直哉 (1883~1971)
武者小路実篤(1885~1976)
谷崎潤一郎(1886~1965)
菊池寛 (1888~1948)
芥川龍之介(1892~1927)
宮沢賢治 (1896~1933)
横光利一 (1898~1947)
川端康成 (1899~1972)
梶井基次郎 (1901~1932)
林芙美子 (1903~1951)
堀辰雄 (1904~1953)
井上靖 (1907~1991)
太宰治 (1909~1948)
中島敦 (1909~1942)
大岡昇平 (1909~1988)
坂口安吾 (1919~1955)
三島由紀夫(1925~1970)
こうしてみると同時代人同志がいろんな意味で触発しあっていたように思える。
身近な設景の斯界を見ても、社会環境の如何を問わず元気な時代にはそれなりの「同時代人」の活躍と輝きが見られる。
今、私の周辺にいる人たちはどちらかと言うと建設関連の人が多いが、どうも皆さん元気が無く眉間にしわがよっている人が多い。過ぎ去った順風万帆時代の味を知っている人たちだ。
しかし、眉間にしわを寄せなければならないような大変革社会でも、その受け取り方によっては、大きなチャンスでももあるはずで、「同時代人」の構想力を生かして眉間のしわを伸ばす事が肝心と考える。今後気がついた「同時代人」とその人たちの偉業を順次埋めてみたいと思う。(2007・11・1)
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by harutokobayashi | 2007-11-01 17:43
サッカーサポーター史
「日本サッカー狂会」

 今日もこの8月に調布から移転したばかりの府中の仕事場で、山積みされた資料の整理を行い帰宅したところ、故池原謙一郎さんの奥様から「お元気でおたんじょうびをおむかえになられますこと嬉しく思っております。この本をパラパラとめくって笑っていただけたらと思いお送りいたします。池原和子。との添え書きと共に「日本サッカー狂会」編者:
日本サッカー狂会、発行者:佐藤今朝夫、発行所:株式会社国書刊行会(電話 03-5970-7421)2007年7月25日初版第一刷発行が送られてきていた。
「ドキ!」とした。なぜかというと、先ほどまで資料を整理していた中で、池原さんのサッカー狂会関係の写真などをファイルに仕分けなどした後だったからである。
私は1964年5月に官職を辞し、最初に訪れたのは建設省、日本住宅公団とお勤めのあと、日本技術開発株式会社に転職され、世界デザイン会議、国際造園家連盟日本大会などの準備に追われていた池原謙一郎さんであった。
その後、池原さんが「環境計画研究室」を創立され、ランドスケープ・造園の計画設計を専業とされるようになってから、駿河台、原宿とご一緒することとなった。
そんな関係から、不幸にして原宿の事務所で倒れられてから、池原さんの資料などお預かりすることなり、池原さん関係の資料は、調布の私の仕事場に移して今年の8月までそこに大切に保管していたのであるが、再度府中に移転、このように何回か資料の移動整理をせねばならなかった。そんな時、この「日本サッカー狂会」関係の資料は守らなくてはと思いながらも、「FOOTBAOLL」「サッカーマガジン」がダンボールに詰まって積まれていたが、この種のものは狂会仲間の方がお持ちであろうと勝手に判断し、泣きたい気持ちを抑えて廃棄せざるを得なかったがこのことなど気になっていた。
また、国際試合の度に、1人原宿明東ビルの仕事場で徹夜して応援の垂れ幕を作成されていたが、この垂れ幕と応援用具などについては奥様にお渡ししたものの、まだ狂会関係のメモなど整理しきれずに今日に至っているものを目にしていたわけで、この貴重な資料をどうしたものかと思案し続けていた矢先であったので、今回の「日本サッカー狂会」の著書を拝見して安堵し、救われる思いがした。
脇田敦様初め出版にご努力された関係者の皆様の熱意とご努力に心から敬意を表し、感謝を申し上げたい。
この本を手にして直ちに和子奥様にお礼の電話をしたところ、毎日吉祥寺の駅で買い求めた10種類以上の新聞から、原宿の事務所でサッカー関係の記事を切り取り時には破りとり、それを家に持ち帰った池原さん、スクラップブックにきちんと整理されるのが奥様の仕事、この関係資料については狂会の後藤健生さんが「日本サッカー史」1917年~2006年、双葉社2007・1・23発行にまとめられたと早速送っていただいた。
池原謙一郎さんがしのばれる夏であった。
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by harutokobayashi | 2007-10-23 14:46
自転車社会実現に向けて

「自転車通勤を楽しむ」
2007年8月にTLAの「設景研究室」を東府中に開設した。今までのアトリエが自宅から1.1Kmであったものが、約7.5Kmと少し離れたため、この機会に自転車を利用することとした。
調布の自宅から東府中の設景室に至る主なるルートは次のようなものである。
①調布市民プールから多摩川サイクリングロードを利用するルート
②自宅から品川街道を利用して府中第6中学を右折するルート
③自宅から調布市役所裏経由で。旧甲州街道を利用するルート
④自宅から調布市役所裏経由、甲州街道、若松町2丁目を右折するルート
これらのルートは、それぞれ同じ区間を往復するのであるがみな特徴があって面白い。
①のルートは、多くの自転車愛好者に混じってひたすら走る感じ、信号も無く自動車の心配も要らないサイクリングにはさすが快適で最適なルートであるが、復員(3m?)が十分でなく、プロまがいの高速自転車に突然音も無く追い越されていく時など、実に危険で、自転車事故の危険が潜んでいる。
また、街中にない川風にさらされ、向かい風の時などその抵抗感は想像以上である(年かな?)休日などは利用者も多く危険も増すが、カッコいい自転車の普及振りが十分うかがえる。私は通常このルートはもっぱら走ることに専念することになる。その場合、時間的には最短距離であるが環境を感じて走るには何か殺風景で物足りなさも感じる。それでも少年野球チームが練習している姿、それを応援するお母さん軍団などなど、横目に見ながら走るのも悪くない。
しかし、僕にとっての一番の魅力はこれから冬鳥の鴨など渡り鳥の観察ができることである。
②のルートを走るには、自宅から歩道と車道を使い分けながら鶴川街道を超え、その先に展開する品川街道の街路樹を楽しむことにある。このルートは、コブシ、アラカシ、ハナミズキ、トウカエデ、ヤマモモなど比較的良く整枝剪定されていて、樹種ごとの個性を活かした管理の仕方を観察するのにずいぶん役立つ、それと共に植栽構造のあり方、特に街路樹の下に目線以上の高さの潅木などが植わっている場合、支線から流入する自動車の見通しをさえぎっていて危険とか、植栽手法についてのいくつかの課題を読み取ることもでき、緑のデザインを考えながら走れるという特徴がある。
③このルートは、旧甲州街道沿いの旧農家の庭とか歴史的街道の面影をほのかに残した空間を走ることになる。庭先の花潅木など楽しめるということもある。ここは歩道が狭いため、自転車の一方通行であれば歩道を走ることは可能であるが、対向自転車が歩道を走ってくるとすれ違いはぎりぎりの幅員である。さらにそこに電柱があり妨げとなっている。このようなところをところどころ車道に避けて走るわけで、いささか自動車への気遣いが大変で危険度が高いルートである。
④新甲州街道沿いのルートは、府中に向かって左側、調布インターのところの歩道が利用しにくいこと、調布に向かって左側、味の素スタジアム前の歩道が分断されていて、府中から調布に向けて連続的に利用不可能などの問題があるが、この部分以外は全体的に歩道幅員が確保されていて無難に走れる。途中鉄道をまたぐ弧線橋は適度な勾配で足の鍛錬になること請け合いである。
このようにわずか7.5Kmのルートであるがそれぞれ視覚的変化(景色、構造性)機能的変化(安全性・スピード性)社会性(環境性、歴史・文化性)など特徴があって面白い。
これら主要ルートを横断的に結ぶルートは沢山あり、季節、天候、気分、時間などを考慮して組み合わせていく考えである。
自転車に乗って移動すると、車利用のとき、あるいはゆっくり歩いている時、気にならなかった地形の高低変化が実によく理解できる。
かつて、昭和二十年代のわが国における自転車は実に貴重な存在で、がっちりした荷台の着いた切り替えなしの実用車に重い荷物を積んで行商し、時にリヤカーを牽引し、二人乗り、など今の自転車社会と比較にならない利用がなされていた。最近でも中国の地方都市でその姿を見ることができるが、懐かしさを感じる。
昭和三十年代中ごろの様子については、私のブログに紹介してある「ぼろ自転車漫歩」を参照していただきたい。(2007年10月22日)
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by harutokobayashi | 2007-10-22 15:40