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日比谷公園の催事
「日比谷公園の催事に思う」
「日比谷公園ガーデニングショウ2007」を見た。見たといってもただ会場を見ただけで、各種企画開催されていた催事を見たわけではないので催事については触れないとして会場について感想を記しておきたい。
日本の都市公園の草分けである会場の緑に囲まれて会場全体のたたずまいは心休まるものがある。この会場はかつて本多静六博士がドイツの小都市コーニッツの公園図面(この図面は現在東大農学部の研究室にあるはず。)を持ち帰っていたものを辰野金吾博士が採用し、そのまま模写し実現した場所である。当時小沢圭次郎など日本独自の案があったのに欧化主義的思潮に却下され、ある意味では屈辱的歴史の記念碑でもある。
このような歴史的いきさつを思いながら、いつも眺めていた会場であるが、10月25日は丁度、秋咲きのバラが色濃く満開であった。開期中多くの来訪者が満喫したことだろう。
さて、ガーデニングショウとしての会場の印象は、ニレの木広場のガーデン部門、芝生イベント広場、東京招致庭園、校庭緑化モデル、大噴水周り施設、ベンチのゾーン、小音楽堂などに区分されていたが、確かにゆったりとした出展作品の展示はゆとりがあってよいといえようが、何か会場全体を催事がなくても来訪者にとって感動空間として受け止められる配慮、空間演出が出来なかったのだろうか、あまりにも分散化されすぎている。
もっと出展作品をアッピールする展示方法など検討の余地が多いと感じた。
これではガーデニングショウそのものの経営的バランス確保が出来ないと感じた。
具体的には、もっと展示空間をコンパクトにし、鑑賞者動線の設定を多忙な都会人が短時間で個々の作品に触れられるように出来なかったのだろうか、あるいはコンテナーガーデンとハンギングバスケットのグルーピングとか、南カルホルニア・ニューポートビーチのロジャースガーデンのことが頭をよぎった。
ひょっとして都の公園管理者からの開場計画についての何か条件がついていたのだろうか、さらに協力出展しているショップも見ていた限りではお客がなく、出展参加経費も回収できそうでない。このような状態だと協力企業も今後皆無になるのではないか、たとえば、ワインショップなどの近くにベンチがあり、そこで庭園やハンギングバスケット、コンテナーガーデンなどが楽しめるように、全体を現代の楽市楽座にできなかったのだろうか?せっかくの関係者のご努力に水をさすつもりは毛頭無く、何とかしなくてはとの思いから感じたことの一部を記した。
このような催事は、開場前日まで作品展示者がはっきり決まらないなどのことも多いと思う。最後までグレーゾーンとして残ってしまうなど大変である。かつて国際博覧会が何回も日本で行われてきたが、そのたびに過労で倒れる人が出た歴史もある。
このよう催事を開催するに当っての関係者の並々ならぬ奉仕活動は、全て、造園産業界への熱い思いがあるからであり、一部のこれら奉仕者に依存していることで事足りるとしている現状を打破するためにも、公園緑地全国大会などとの開催日の連携、環境関係をアッピールしたい企業自治体などの参加を促し、もっと賑わいを演出し、経営的にもバランスの取れる工夫を専門的にすべきであろう。場所は超一流なんだから・・・・。
2007・10・26 小林治人
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by harutokobayashi | 2007-10-26 15:29 | 設景の思想
万国博覧会
上海博覧会への期待
はじめに
2010年、中国はもとよりアジア諸国待望の万国博覧会が上海で開催されるにあたり、その準備に携わる関係者の多忙さは大変なものがあると推察します。
私は、1970年の大阪万国博覧会の会場設景を最初として、1975年沖縄海洋博覧会、1985年つくば科学博覧会、1989年横浜万国博覧会、1990年大阪万国花博覧会、1999年昆明世界園芸博覧会、2000年万国淡路花博覧会などの会場設景に「設景家」として参加してきました。これらの経験から万国博覧会の準備が如何に大変であるかを十分認識している者の一人です。
21世紀地球環境問題が最重要視される国際社会の中で、上海博覧会への期待と大成功への願いをこめて、万国博覧会の歴史を顧みながら上海博覧会における設景家の役割を考えてみたい。
博覧会の芽生え
今ではわれわれにすっかり身近になった各種の博覧会は、大航海時代に端を発しているといわれます。 1522年マジェランによる世界一周などなど1490年前後から1520年頃の30年余りで世界の様相を一変させるような大航海の時代が続きました。ランドスケープという画家のテクニカルタームが使われだした頃とほぼ一致します。
西欧諸国は、この大航海の時代を持続し、盛んにしながら、キリスト教の普及を進め植民地を拡大させ、ヨーロッパの富のために資源の搾取を効率化させて、世界の各地を植民地化することに邁進する時代でもありました。
16世紀中頃から、ヨーロッパの王侯貴族は、拡大された植民地における珍しい動植物の収集に精を出すようになり、動植物園など、標本陳列施設を建設しました。これらの施設は、珍しい異国の動植物を眺めることが中心で、味、匂い、肌触りなどは無視されていました。現代においては大問題になる「人間の博物学」の発達があり、アフリカ原住民など人間の分類、序列化さえ行われました。
このように現代において想像できないような発想がまかり通っていたわけです。しかし、人々の好奇心を満たすものとしての陳列施設は歓迎されました。
さらに18世紀から19世紀にかけてキュー植物園、パリ王立植物園などが一般公開されました。このような流れが各種の標本の展示、動物の展示など18世紀を通じて博物学的な分類システムを普及・発達させました。
大航海の時代から、博物学の時代へ、そして博物館や動植物園の体系化と公開化の進展がやがて万国博覧会の時代へと移行していくための前提となっていきました。
万国博覧会へ
万国博覧会の時代は、このような歴史の過程を得てヨーロッパ諸国家が、この博物学的な眼差しの場を、新しい資本主義のイデオロギー装置として国家的に演出していこうとするようになったときに出現したといえます。
万国博覧会は、博物館や動植物園などにおいて、これらを眺め鑑賞することに重点が置かれていましたが、産業テクノロジーの発展を機軸として壮大なスペクタクル形式のものへと進化しました。この先鞭をつけたのはフランスでした。
1798年の革命祭を引き継いで、産業博覧会が繰り返し開催されるようになり、この動きがヨーロッパ各地に広がりました。
これらの動きの集大成として、1851年ロンドンで史上初めての万国博覧会が開催されることとなりました。これ以後開催された博覧会の特徴を整理すると、
第一、産業のデイスプレイであると共に「帝国」のデイスプレイでありました。
第二、19世紀の大衆が、近代商品世界を知る機会でもありました。
商品世界のデイスプレイ戦略がデパートのショウウインドウの中で拡大していくきっかけともなったといえます。
1930年代以降は、巨大な広告展示場として、大企業のイメージ戦略の一環をになうようになっていきました。住宅展示ほか生活関連商品など多彩な展示がされるようになりました。
第三、これらの他に,見世物師達を演出に組み込んで、見世物の博覧会の側
面も持つようになりました。
万国博覧会の最初は1851年ロンドン博覧会でした。
1851年5月から10月まで141日間、入場者数604万人、日最大10月7日には、11万人、平均43000人の賑わいがあったといいます。しかし、参加国は34カ国でした。
この博覧会の最大の目玉は、サー ジョーゼズ パクストン設計の水晶宮でしたが、彼は、チェズイック園芸協会の園芸家であり、1826年以降、いくつかの温室を建設し成功させていました。これらの近代温室の起源は、16世紀の大航海とともに始まったものでした。
もともとロイヤルガーデンであったハイドパークにおいて博覧会を開催することについては、ロンドン市民の反対がありました、これは、せっかくの公園の樹木を伐採してまで博覧会を開催することはないというもので、この点については、パクストンの案は、既存の3本の大きなニレの木を屋内に取り込むということで解決したもので、当時としては人々の意表をつく発想で、この樹木そのものが人気の展示物となったのでした。
20世紀ともなると、消費文化の成長とともに、消費文化の広告塔的役割が強くなり、近代の商品世界とのふれあいの場としての機能が強くなりました。
しかし現在この面の機能は、デパート文化に引き継がれ、日常化した空間となりました。さらに、巨大映像の導入など大衆娯楽としての側面も強くなりました。さらに今日では,豊富な情報を駆使したTV・ハイビジョンなどの進歩と、かつての博覧会の感動空間が、お茶の間で常時見ることができるようになり、単なる映像中心の博覧会などでは、人々は特別の興味をいだかなくなりました。
上海博覧会に望む
現在の上海は、多様なデザインの近代ビルが林立し、建築デザイン博覧会の様相を呈しています。上海博覧会は、上海という都市全体が万国博覧会の会場であるといえます。急速に近代化が進んだ上海はそれゆえの問題、大気汚染、ヒートアイランド化、水の汚染、地盤沈下、などと共に人々の生活から発生する騒音、エネルギー不足、など環境問題への影響が懸念されています。この現状を踏まえ、中国5千年の歴史に学んだ解決策が示されるような万国博覧会であってほしいと思うものです。反面世界一の人口大国に生活する現代文明と距離のある人々にも理解され支持される内容が求められます。
その意味では今世紀最も人類的関心の高い環境問題解決への貢献の方法を分かりやすく人々に示し、体験できる仕組みが最重要であり、その糸口が示されるような博覧会になれば、21世紀環境面で世界を凌駕する近代文化国家・中国の未来へ光りを与えると考えるものです。
設景の対象領域はこの考えに基づいて、大地、大気、水、言い換えれば陸・海・空の対象に対峙して、大地の砂漠化防止、工場排水家庭排水による河川・海洋汚染の防止、工場排煙などによる大気汚染防止など身近な問題解決のために何をすべきかを、美しくて楽しい会場設景によって演出していくことを希望する次第です。そのために、万国の設景力を集結すべきでしょう。
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by harutokobayashi | 2007-10-25 12:57 | 設景の思想
サッカーサポーター史
「日本サッカー狂会」

 今日もこの8月に調布から移転したばかりの府中の仕事場で、山積みされた資料の整理を行い帰宅したところ、故池原謙一郎さんの奥様から「お元気でおたんじょうびをおむかえになられますこと嬉しく思っております。この本をパラパラとめくって笑っていただけたらと思いお送りいたします。池原和子。との添え書きと共に「日本サッカー狂会」編者:
日本サッカー狂会、発行者:佐藤今朝夫、発行所:株式会社国書刊行会(電話 03-5970-7421)2007年7月25日初版第一刷発行が送られてきていた。
「ドキ!」とした。なぜかというと、先ほどまで資料を整理していた中で、池原さんのサッカー狂会関係の写真などをファイルに仕分けなどした後だったからである。
私は1964年5月に官職を辞し、最初に訪れたのは建設省、日本住宅公団とお勤めのあと、日本技術開発株式会社に転職され、世界デザイン会議、国際造園家連盟日本大会などの準備に追われていた池原謙一郎さんであった。
その後、池原さんが「環境計画研究室」を創立され、ランドスケープ・造園の計画設計を専業とされるようになってから、駿河台、原宿とご一緒することとなった。
そんな関係から、不幸にして原宿の事務所で倒れられてから、池原さんの資料などお預かりすることなり、池原さん関係の資料は、調布の私の仕事場に移して今年の8月までそこに大切に保管していたのであるが、再度府中に移転、このように何回か資料の移動整理をせねばならなかった。そんな時、この「日本サッカー狂会」関係の資料は守らなくてはと思いながらも、「FOOTBAOLL」「サッカーマガジン」がダンボールに詰まって積まれていたが、この種のものは狂会仲間の方がお持ちであろうと勝手に判断し、泣きたい気持ちを抑えて廃棄せざるを得なかったがこのことなど気になっていた。
また、国際試合の度に、1人原宿明東ビルの仕事場で徹夜して応援の垂れ幕を作成されていたが、この垂れ幕と応援用具などについては奥様にお渡ししたものの、まだ狂会関係のメモなど整理しきれずに今日に至っているものを目にしていたわけで、この貴重な資料をどうしたものかと思案し続けていた矢先であったので、今回の「日本サッカー狂会」の著書を拝見して安堵し、救われる思いがした。
脇田敦様初め出版にご努力された関係者の皆様の熱意とご努力に心から敬意を表し、感謝を申し上げたい。
この本を手にして直ちに和子奥様にお礼の電話をしたところ、毎日吉祥寺の駅で買い求めた10種類以上の新聞から、原宿の事務所でサッカー関係の記事を切り取り時には破りとり、それを家に持ち帰った池原さん、スクラップブックにきちんと整理されるのが奥様の仕事、この関係資料については狂会の後藤健生さんが「日本サッカー史」1917年~2006年、双葉社2007・1・23発行にまとめられたと早速送っていただいた。
池原謙一郎さんがしのばれる夏であった。
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by harutokobayashi | 2007-10-23 14:46
自転車社会実現に向けて

「自転車通勤を楽しむ」
2007年8月にTLAの「設景研究室」を東府中に開設した。今までのアトリエが自宅から1.1Kmであったものが、約7.5Kmと少し離れたため、この機会に自転車を利用することとした。
調布の自宅から東府中の設景室に至る主なるルートは次のようなものである。
①調布市民プールから多摩川サイクリングロードを利用するルート
②自宅から品川街道を利用して府中第6中学を右折するルート
③自宅から調布市役所裏経由で。旧甲州街道を利用するルート
④自宅から調布市役所裏経由、甲州街道、若松町2丁目を右折するルート
これらのルートは、それぞれ同じ区間を往復するのであるがみな特徴があって面白い。
①のルートは、多くの自転車愛好者に混じってひたすら走る感じ、信号も無く自動車の心配も要らないサイクリングにはさすが快適で最適なルートであるが、復員(3m?)が十分でなく、プロまがいの高速自転車に突然音も無く追い越されていく時など、実に危険で、自転車事故の危険が潜んでいる。
また、街中にない川風にさらされ、向かい風の時などその抵抗感は想像以上である(年かな?)休日などは利用者も多く危険も増すが、カッコいい自転車の普及振りが十分うかがえる。私は通常このルートはもっぱら走ることに専念することになる。その場合、時間的には最短距離であるが環境を感じて走るには何か殺風景で物足りなさも感じる。それでも少年野球チームが練習している姿、それを応援するお母さん軍団などなど、横目に見ながら走るのも悪くない。
しかし、僕にとっての一番の魅力はこれから冬鳥の鴨など渡り鳥の観察ができることである。
②のルートを走るには、自宅から歩道と車道を使い分けながら鶴川街道を超え、その先に展開する品川街道の街路樹を楽しむことにある。このルートは、コブシ、アラカシ、ハナミズキ、トウカエデ、ヤマモモなど比較的良く整枝剪定されていて、樹種ごとの個性を活かした管理の仕方を観察するのにずいぶん役立つ、それと共に植栽構造のあり方、特に街路樹の下に目線以上の高さの潅木などが植わっている場合、支線から流入する自動車の見通しをさえぎっていて危険とか、植栽手法についてのいくつかの課題を読み取ることもでき、緑のデザインを考えながら走れるという特徴がある。
③このルートは、旧甲州街道沿いの旧農家の庭とか歴史的街道の面影をほのかに残した空間を走ることになる。庭先の花潅木など楽しめるということもある。ここは歩道が狭いため、自転車の一方通行であれば歩道を走ることは可能であるが、対向自転車が歩道を走ってくるとすれ違いはぎりぎりの幅員である。さらにそこに電柱があり妨げとなっている。このようなところをところどころ車道に避けて走るわけで、いささか自動車への気遣いが大変で危険度が高いルートである。
④新甲州街道沿いのルートは、府中に向かって左側、調布インターのところの歩道が利用しにくいこと、調布に向かって左側、味の素スタジアム前の歩道が分断されていて、府中から調布に向けて連続的に利用不可能などの問題があるが、この部分以外は全体的に歩道幅員が確保されていて無難に走れる。途中鉄道をまたぐ弧線橋は適度な勾配で足の鍛錬になること請け合いである。
このようにわずか7.5Kmのルートであるがそれぞれ視覚的変化(景色、構造性)機能的変化(安全性・スピード性)社会性(環境性、歴史・文化性)など特徴があって面白い。
これら主要ルートを横断的に結ぶルートは沢山あり、季節、天候、気分、時間などを考慮して組み合わせていく考えである。
自転車に乗って移動すると、車利用のとき、あるいはゆっくり歩いている時、気にならなかった地形の高低変化が実によく理解できる。
かつて、昭和二十年代のわが国における自転車は実に貴重な存在で、がっちりした荷台の着いた切り替えなしの実用車に重い荷物を積んで行商し、時にリヤカーを牽引し、二人乗り、など今の自転車社会と比較にならない利用がなされていた。最近でも中国の地方都市でその姿を見ることができるが、懐かしさを感じる。
昭和三十年代中ごろの様子については、私のブログに紹介してある「ぼろ自転車漫歩」を参照していただきたい。(2007年10月22日)
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by harutokobayashi | 2007-10-22 15:40
劇団四季・キャッツ
劇団四季
「キャッツ」
 話題の「キャッツ」を観劇、職業柄最初に注目したのは劇場空間の設定、
ある都会のゴミ捨て場、ごみの山の中に展開する捨て猫社会の悲喜こもごも、個性的な猫の生活を中心に展開される物語は、舞台装置・照明・音響、熱心な観客の熱いまなざし、などに支えられた演者との総合的演出効果によって芸術的感動空間となっている。
それぞれの役を演じる芸術家としての演者さんたちも、習熟度の高い演技を披露していて安心して舞台を眺めておれる。観客の多くはリピーターも多いと聞くがその気持ちも良くわかる。
 われわれのように生き物の技術を基本とした「緑の空間設景」をする者にとって、人々の日常生活の舞台創造と共通したものがあり、大変楽しく参考になった。
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by harutokobayashi | 2007-10-22 09:48