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酔園小沢圭次郎
酔園小沢圭次郎
1 欧化時代の伝統文化庇護者
 「俺が死んだら日本庭園は闇だ」と晩年の小沢圭次郎は、名門東京府立園芸学校の学生に語り、自分の国の伝統的庭園文化への強い誇りと、その保護・保存に半生をかけた自負のほどを示していた。
1)彼は、明治44年6月から昭和6年3月にかけての20年間、同校の嘱託講師として、「前栽秘抄」別名作庭記、「山水并野形図」、「古伝園方書」などを謄写版で印刷した講本を用いて週一回の講義と、三年生になると、春秋2回の庭園見学を行い現地で徹底した解説を通じて庭園文化を伝えようとした。この見学会の時は校長も、ほとんど欠かさず参加しているところをみると、学校としても力を入れていたことが分かる。品川御殿山岩崎邸(小沢設計)、東大植物園、椿山荘、池上本門寺庭園など38ヵ所に及び、再三見学をした庭園が多い。

2)上原敬二博士は、わが国造園界の大恩人として小沢圭次郎を高く評価している。小沢とは生存中交遊があり、巣鴨の小沢邸に一瓶携えては酒盃を交わし合った。

3)小沢は自ら「酔園」と号していることから酒豪のように思われがちであったが、むしろ酒間の気分を愛して酒盃を手にした愛飲家と呼ぶことがふさわしい人であり、清貧な暮らしの中で、庭園とそれに関係する古文漁りが思うに任せぬくやしさを声涙とともに、童顔をゆがめ、白髯を震わして物語った。八畳の居間には、棧木製の蚕棚のような形をした書架があり天井近くまで達していた。これに古書の写し、原稿などを乗せていた。原稿は全て筆墨を用い、一部終了ごとに表紙をつけてこれを一巻と呼んで整理していた。こうした資料も、70才の頃、大病の脚気を煩った時、療養の必要上資力の繋ぎとして上野帝国図書館に売却をしている。これらの資料は現在国立国会図書館に収蔵されている。以下小沢の歩みをたどる。

4)小沢についてはすでに多くの関係者、研究者によって紹介されているがその多くは日本造園史の研究家、設景家としての側面からのものが多い。吉川需博士は、「小沢圭次郎(酔園)詩学研鑽4」」と題して小沢の生い立ち、学習期を経て園林叢書編纂に必要な素養を身につけた青年期までの歩みを記述している。
 小沢は、天保13年(1842)4月3日桑名藩医官小沢長庵の次男として生まれ、昭和7年(1932)1月12日、急性肺炎にて89才9ヵ月の生涯を終える。その間11才で詩を作る喜びを知り、13才で瘍医長崎升斎の門下生、16才で「鯛三」改め「圭斎」にさらに26才大政奉還の年、「圭次郎」と改名し、さらに「圭次郎」と改めた。20才の時に長崎奉行高橋州作の侍医として長崎に同行、医学と作詞にはげむ。22才で藩医の兄の跡を継ぐ、藩からは英学の修行も命ぜられている。明治3年(1870)上京神田淡路町神田孝平氏の新居へ、ここで園林叢書の素養を養った。
明治4年兵部省海軍兵学校教官、同6年東京師範学校教官、同8年同校校長心得となり、同19年までその職にあった。
 明治22年には、岡倉天心、高橋建三等が美術雑誌「国華」を創刊しているが、翌年二月、(第五号)より岡倉天心、今泉雄作らに勧められて、明治38年6月号まで「園苑源流考」の執筆に励んだ。岡倉天心、フェノロサなどと同時代の多感な学者小沢が、日本的庭園研究へ傾倒していくことに強い誇りを持って望んでいる姿が窺える。この頃は、まさに幕末から明治へ移行する未曽有の動乱期であった。慶応三年(1867)10月大政奉還、明治2年(1869)6月版籍奉還、明治4年(1871)廃藩置県と続き、明治政府による廃仏毀釈運動によって、個人の庭ばかりでなく寺院の庭園までその荒廃の極に達していた。

5)このような世情の中で、“世乱れて忠臣立づ”のたとえのように、小沢の伝統文化を庇護しようとする意志は益々強固なものになったと推測できる。庭園に関する古文書漁りとともに執筆も盛んである。豊かな漢学の素養によって、一般人には難解な中国各種の書籍から園林に関する部分、唐から清代にわたる広汎なものを、小沢圭次郎編「園林叢書(中国編)」6)としてまとめている。これは園林史上重要な文献となっている。国華に連載した「園苑源流考」は、その要旨として後年「庭園源流略志」7)「後楽園源流略記」8)「大名の庭」などに要約して述べられている。

注目すべきは小沢の公園論10)11である。公園の概念として、公園とは元来その土地の人々の楽しみ遊ぶ園囿であり、欧米諸国の場合は、修景に意を用いて人々の利用に供しているのに対し、日本の公園は公園の体を成していないときびしく批判している。この背景には小沢がアメリカのゴールデンゲートパーク12)やセントラルパークの計画平面図を模写しながら公園のあるべき姿を研究した跡がうかがえる。「明治庭園記」13)は小沢の庭園に寄せる心情を吐露した貴重な論文である。この中では明治時代の園囿荒廃を記述するために総論において明治紀元から大正紀元にかけての時代を五つに大別し、この大別に従って、第1編から第5編に分けて論述している。庭園の荒廃、庭園の新設や改修、禁苑及旧園縦覧、公園の設置、新旧庭園の脩治公園、神苑の新説、日本の造園方法など多岐にわたる内容である。このほかの著述としては未完のものとして晩翠堂詩草十五巻(安政以降)園林叢書八百余巻(明治19年以降)、他に未定稿のもの三巻がある。と畠山裕が「庭園と風景」14)に記述している。
 小沢のこれらの業績によって今、薄れゆく日本独自の伝統的造園文化を知り学ぶことができるわれわれは、欧化時代における小沢の活躍の賜物であることを痛感するのである。

2「設景」と「設計」
 「日比谷公園設計批判について」15)と題した上原敬二の記事がある。そこには小沢(84才)が、上原も一緒の親しい仲間の集いの席で、設景と設計二つの文字の差異に関して啓蒙的な熱論を拝聴したとある。その時、矢野次郎(筆者注:二郎の誤りか)氏(1845~1906)氏ほどの学者でもこの二語を誤用しているとの話から、小沢氏が日比谷公園の設計委嘱を受けた昔話にふれ、明治34年、小沢が東京市に設計書を送ったところ反対があった。その中で最も力を入れた駁論は矢野であった。
大正14年7月21日付、小沢が上原に送った手紙がある。そこには小沢が東京市長に提出した純日本風の林泉を経営するための図案(即設景也)及び解説に対し、本邦風庭園は一時中止との連絡をうけ、落胆した容子が記されている。これは明治34年11月12日付、東京市長松田秀雄からのものである。図表―1)
この手紙を一つの区切りとして、日本最初の近代都市公園は欧風スタイルで実現したことになる。17)このとき、福羽逸人は園芸論の中で「小沢氏ノ設計セル邦式庭園ハ意匠卓絶趣味アリ優麗ト称スヘカラサルモ明媚ノ適性ヲ存シ――中略――近頃聞ク処ニ依レハ此部ノ設計ハ中止セラレタリト、実ニ遺憾ノ至リトス。」と小沢案が却下されたことを残念がっている。更に採用された本多静六案に対しては、ドイツの小都市コーニッツの公園をそのまま模写したことにふれ「林学博士カ公園ヲ造築シ林学士ノ公園樹木ヲ補植スルトハ云ヲ属スル人モ人ナリ、托セラル、人モ人ナリ、甲乙共ニ無謀ノ極ト評スルヨリ他ナシ、予ハ適評ヲ見出サザルモ例エハ人ノ衛生ト病人トヲ獣医ニ托シタルト一緒ナルカ如シ・・・」と思いの程を吐露している。
明治39年、小沢は堺市大浜公園の設計を委嘱され設景を行っているが、その中で、日比谷公園の園地と同型のものを敷地に取入れる検討をしている図面がある。発註者からこの時既に開園していた日比谷公園と同じ様式を求められてのことなのだろうが疑問が残る。小沢が上厚に送った手紙の内容にもどる。
矢野が記した公園物語に関して所感を説いている。「――先づ第一に公園設計(・・)物語という題目を掲げて其語らるる所は設景と設計との区別も立たねばいと便なきこととぞ思ひける。設計は目論見または算段の事なれば、いやしくも市政当局者に非るよりは妄りに市内公園の設計につき容啄すべきに非ず。而して設景は庭づくりの趣向または工夫なれば、たとへば平庭が好しとか、山水造が宜しとか或は枯山水にせよとか・・・・・以下省略
設計という用語は明治時代、デザインの訳語として登場した(18)この用語の対象は当初建築と関係が深く、図面を書いて積算し、工事費を算出して施工を行うための行為に対する言葉としてのイメージが強いのに対し、設景はもっと空間の総合的な概念用語として捉えていたように見える。

3 設景活動
 小沢は詩学研鑽など豊富な学習によって養った感性と、園林叢書編纂をはじめ数多くの造園史の研究によって培った知識を基に、自ら筆墨を用いた設景活動を展開した。(14)(19)その活動は現在判明しているだけでも22カ所前後あり、交通事情等今日とは全く異なる状況下において、遠地の現場を何回となく踏査したパワーにはただ脱帽あるのみ、その上、遠地への出張時は、道中記を克明に記して、科学的視座を持つ観察眼に感心する。
これらの活動の中から、日英博覧会会場日本風林泉設景の一部を紹介し、小沢の設景活動理解の一助に供したい。
 日英博覧会は、明治43年(1910年5月14日~10月29日)ロンドン郊外のシェファード・ブッシュで開催された。この博覧会開催の背景には、日本からの輸出攻勢を受け、とかく反日感情が高まりやすいヨーロッパで、日本文化を紹介することによって相互理解を図るのが目的であった。(20)
明治41年(1908年)10月16日閣議決定、日本側予算の総額を180万円と定めた。会場全体の面積は20万坪であった。(図表-2)この中に日本庭園は甲、乙の2か所出展された。甲は平和園と称して3020坪、乙は浮島園と称し3260坪であった。
設景には、小沢圭次郎、本多錦吉郎、清水仁三郎、井沢半之助が選ばれたが、最終的には甲は小沢、乙は本多案を基礎として、現地で井沢が監督をして施工した。井沢は日本から植木職人3名と同行しての仕事であった。
当初小沢は、甲乙両地区に対して提案をしている。(21)甲の設景に当たっては山水造日英池としてかなの「にちえい」を(図表―3)乙は「どうめい」(同盟)(図表―4)をそれぞれ図案化して提案しているが、乙の「どうめい」の案は採用されなかった。
実施されたものは、甲(図表―5)乙(図表―6)ともに当初と形態的に異なる形で竣工している。この博覧会には横浜植木が日本庭園と茶席を出展し、一色七五郎が設計監督している。(21・22)

4 結語
 酔園小沢圭次郎が多感な少年期から青年期にかけて培った、漢学、詩学、医学、蘭学、英学の素養を基に、東京に出て以後、日本の伝統文化の庇護、中でも造園史に向けての爆発させた情熱の成果としての業績の理解は、あまりにも厖大過ぎて浅学非才の筆者には荷が重かった。しかし、30歳有余年のランドスケープ・造園の計画設景に携わってきた者として、酔園の図面や書類に触れながら、そこに記されているもの以外のもの、酔園の体温が伝わってくる思いがして興奮の連続であった。この様な経験ができたのもひとへに資料提供とご助言をいただいた佐藤昌先生、小板橋二三男先生、蓑茂寿太郎先生、他特に東京都立園芸高等学校の関係者の方々のおかげである。ここに厚く御礼申し上げ結語としたい。
文献(引用・参考)
1)東園の七十年、東園同窓会 p28~p32
2)  〃          p32~p35、p223~p224
3)この目でみた造園発達史 上原敬二
4)「庭園」復刊第5号 (社)日本庭園協会 1994,4,26
5)「文明開化と造園」 針ヶ谷釜吉 東京農業大学出版会 1990
6)小沢圭次郎編「園芸叢書(中国編)」解題、佐藤昌 明治19年
7)「庭園源流略考」1~8 建築工芸雑誌 明治45~大正元年
8)「後楽園源流略記」 建築工芸雑誌 明治45年
9)「大名の庭」 建築工芸雑誌 明治45年
10)「日本園芸会雑誌」 明治26年10月第47号
11)「日本公園緑地発達史」 明治26年10月第47号
12)大日本園芸会事務所所蔵、明治27年模写
   セントラルパーク図、ゴールデンゲートパーク図、蓑茂寿太郎氏提供
13)「明治園芸史」第十編、日本園芸研究会(大正四年十月五日)
14)「庭園と風景」第14巻第3号
15)「都市公園」No28 東京都公園協会(1961, 6)
16)「コンサイス人名辞典」日本編、三省堂出版(1981)
17)林旅(筆写)、福羽逸人、「園芸論」
 (社)日本公園緑地協会所蔵
18)「明治ことば辞典」東京堂出版
19)「日本公園緑地発達史」下巻 p305
20)「政治経済史学第186号 1981,11
21)「園芸の友」第6年第11号、第12号 1910
22)「(社)神奈川県造園業協会報 第146号 1993
23)横浜植木株式会社70年史 1961
24)「日本公園百年史」-総論― p374
25)「造園修景大辞典」I p281~p282

明治13年冬(1880)堀越安平(初代角次郎)氏庭園
〃 18 夏 細川潤次郎氏小石川牟々山荘
〃 20 春 上野博物館動物園閑々亭ノ前庭改修
〃 21.8 伊勢神宮内苑及び外苑の改修設計
〃 21 冬 堀越角次郎氏(二代目)両国橋東の別業の庭
〃 22 春 再び伊勢神宮
〃 22 冬 堀越勘助氏両国新宅ノ庭
〃 23 夏 菊池大麓博士邸庭園
〃 23 冬 三篠内府公新邸ノ庭
〃 25 冬 女子高等師範学校幼稚園ノ園池の改修
〃 25 冬~26 夏 奈良公園回収業、奈良帝室博物館新設の園池
〃 26 冬 堀越増五郎氏庭園
〃 30.4 高松栗林公園改修設景
〃 31   香川県観音寺町琴弾公園設景
  34 春 宮内省上野公園改善計画調査委員会委員となる
明治34.2 日比谷公園設計案作成
  39   堺市大浜公園設景
  41.9 大阪市天王寺公園内日本庭園設景
  41.7 別府市別府公園設景
  42.6 日英博覧会場日本園林泉設景
  42.3 福岡県営西公園(荒津山公園)改修設景
  44.6 東京府立園芸学校内園地新設設景
       米井氏邸庭園(改修図案)
       麻布三篠公苑(明明治24.1月) 図面?
       品川厚氏苑(明治28.11)
       畠山家新築設計図、建物の間取り図のみ おそらく庭園に関与
       岩手県庁前庭設景意見(明36.10.5)
       香川県琴平市公園設景(明32.4  )
       栗林公園改修(明30.   )
       柳谷卯三郎氏新邸庭園(明治 ? )
       黒田英居邸 説明書のみ
       上野国多胡碑保護意見(明32.12  )
       土肥氏園林設景図案解説(明40.7)
       中島氏飯田町別邸庭園設景図案解説( ? )
       大正博覧会会場内前栽植付及花樹 花卉品目及金額(大正二年)
       女子高等師範学校園地改修図案解説
       日比谷公園倶楽部植付草花類見積書(明34.5)
       日比谷公園樹石土等予算(明34.3.31)
       内宮・外宮神苑見造意見(採用されず)
       米井氏邸園(改修図案)
       麻布三篠公苑 明24.1(図面?)
       品川厚氏苑 明28.11( 〃 )
       伊勢神宮内苑及外苑の改修 大正4.4.12
       畠山家新築設計図
       大阪府堺市市長宮本通義より嘱託 明治39.12.8
       岩手県庁前庭設景意見 明治36.10.5
       岩手県知事北篠元利
       香川県琴平公園設景 明治32.4
       琴弾公園設景      32.4
       栗林公園改修      30
       柳谷卯三郎氏新邸庭園 (明治? 原稿用紙「香川県」を使用している)
       黒田英居邸 説明書のみ
       上野国多胡碑保護意見(明32.12)
       土肥氏園林設景図案解説(明治40.7)
       中島氏飯田町別邸庭園設景図案解説( ? )
       大正博覧会会場内前栽植付及花樹花卉品目及金額 大正二年 岩本勝五郎
       女子高等師範学校苑地改修図案解説 用紙に園林叢書 皆園居蔵使用
       日比谷公園倶楽部植付草花類見積書 明治34.5
       日比谷公園樹石土等予算 明治34.3.31 植本職清水直吉?
       米井氏庭園改修図案解説 (堺市の用紙使用) カラーの図面共
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by harutokobayashi | 2008-01-26 14:34 | 設景の思想
尾瀬国立公園
尾瀬国立公園記念式典
尾瀬から地球環境へのメッセージ
12月23日午後1時から午後5時まで、
日本消防会館ニッショウホール
 山岳湿原の保存に熱心な地元民間人の力強い運動が実って、平成19年8月30日「尾瀬国立公園」に指定されたことを記念した式典があった。湿原としては国立公園28番目の「釧路湿原」に次ぐ29番目の国立公園である。
尾瀬は昭和35年に国の「特別天然記念物」に指定され、さらに湿原生態系としての価値が評価され、平成17年11月に「ラムサール条約湿原」として登録されていた場所である。
式典のプログラムの中で「自然環境を肌で学ぶ」と題して養老孟司先生の話にうなずくことが多かった。

 まず最初に先生は、昔訪れたところに今行くとその変化に驚く、昔畑であったところが森になっている。この変化は時間の経過で当然なことかもしれないが、昔感動した記憶の風景などイメージを損なわないためには、変化した現状を見たくない気持ちもある。他方記憶は当てにならないとも思う。というような話から始まって。専門の脳の話をされた。

 人間の脳は、五感から入力された刺激によって、脳の中の演算装置が働いて運動として出力される。この出力した運動の結果が入力に影響している。
脳から出せる出力は運動だけである。運動は筋肉に依存している。筋力が無いと五感が訓練されない。五感を磨くには位置移動が必要であり、自然環境の中で五感を磨くことが効果的であることを説いておられた。
 脳の中には運動のプログラムがある。しかし、現代のスポーツは一種目のみ特化させ強くならないとアスリートとして通用しない仕組みになっている。さらに現代日本の運動は種目ごとに縦にバラバラになっていて、各種の運動を横断的に支える文化の中の動きが変わった。

人間を含めて生き物が常に備えているものには次のような特徴がある。
①環境の急変に対応する能力。
たとへば、敵がどこから攻めてくるかわからない時代の日本の武道には、柳生の兵法の心のおき方がある。相手の剣においてもいけない、自分の剣においてもいけない。体のどこにも力を入れないで、フワフワとしている。この状態を隙が無いという。現代人は身体に力が入っていて動きが重いように見える。だから即座に予期できない出来事に対応する力が弱い人が多い。
②、次の動きを予測する能力。
 次の動きが予測できない人は置物である。脳に備わった予測力によって最も合理的に身体を動かすことができる。予測する力は筋肉より先に脳が持っている。
②移動能力
動くと変わる。常に動くことによってものなどの違いがわかるような五感が働くようになる。しかし子供と同じ「違い発見テスト」をすると子供の五感が優れている。
しかし、自分がわかっていないのにわかっていると思っているのが大人、このように感覚が鈍ってくると逆に平和になる。

学生時代、世界を変えようと仲間と騒いだ時期があった。世界とは何か漠然として捕まえようが無いのに世界を変えようと思った。この解決には自分が変わればよいと気づいた。
意識をコントロールしているのは脳(五感)であるが、頭が先でなく身体が先に動く、体が意識を変える。意識は情報しか扱わない。言葉の世界は皆同じ、印刷された情報は何年たっても変わらない。
人間は日々変わっている。自然は皆違い同じものが無く、人の思うようにならない。意識は自分を狭くしていく、(意識過剰)
都会の人は長生きするが、それは本来の意味で生きていないで、動かないでただ息をいている人が多い。
都会は意識の世界、自然は感覚の世界、自然環境を肌で感じ取ることがもっとも良い脳への入力となり、良い運動を出力してくれる。
後は皆さんで考えて欲しい、という内容であったと理解した。
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by harutokobayashi | 2008-01-04 05:42 | 設景の思想