2015年のQPA
今年は2015年11月20日、公園管理運営士会が一般社団法人公園管理運営士会として登記され、社会的立場がはっきりしたことを受け、会全員が社会的責任を自覚し社会に対して認知度を高めながら、関係団体とも連携をとりながら、都市公園事業者に対して具体的な政策提言などしやすくなりました。任意団体としてスタートして10年間、長期的展望に立って当会の道筋をつけられた事務局をはじめ、全国各地支部の真摯なご努力に対して感謝と敬意を表します。 都市の世紀における公園が、社会の中に深く溶け込んで、ますます市民生活に密着していく時代、公園の安心・安全確保など公園管理運営士に課せられた社会的責任はますます大きくなっています。 公園を見ればその地域がわかるといわれます。公園が評価されない地域では主として財政的に公園を維持できないなどが理由に挙げられていますが、元気な公園利用者が増えれば、主に福祉関係、医療費の削減につながるともいわれます。 我が国の指定管理者制度の進展は、応募者の知識・能力を競う機会が増え、公園管理運営思想・技術がますます進化し、深化させています。 さらに、公園管理運営面から考案された植栽が、国際観光資源として人気を博して、地域活性化に貢献している事例もありますが、このような実績を持つQPAの資格は、World Urban Park(WUP)に公認されたため、QPA会員はWUP日本支部に加入して申請すれば「公認国際公園士」の資格を得られることになりました。また、超高齢化社会の到来は、シニア層の公園利用者が増えて、その対応に若い女性の活躍場面も増えています。 QPA有資格者は全国で2000名を超えました、当会の活動は法人化を契機にしてますます内外で活発な活動を展開いたします。新しい日本の造園産業の一翼を担うことに生きがいを見いだせると感じる未入会の方々の入会をお勧めします。 ■
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by harutokobayashi
| 2015-12-17 19:22
| 公園管理運営士会
ランドスケープコンサルタンツ協会(CLA)次の50年へ
敗戦後、我が国造園設計の職能は、1950年を境にその黎明期を迎え、南北朝鮮動乱による米軍接収財産施設設計、東京都の戦災復興公園設計、旅館・ホテル・工場等民間施設の庭園設計など、戦前から匠の技を受け継いできた諸先輩が設計の分野を担っていた。 1954年社団法人日本造園学会は、IFLAに正会員として加盟した。敗戦後の日本において伝統的日本庭園文化を礎に、欧米先進国の造園も参考にしながら、造園職能活動が活発化していることを世界に知らしめるため、1964年5月第9回IFLA日本大会を東京・京都を主な舞台として開催した。このIFLA日本大会開催に向けて、日本における造園設計者の存在観を示すため1964年3月、現在のCLAの前身「造園設計事務所連合」が職能団体として誕生した。 CLAが創立50周年を迎えた今、自らの軌跡を振り返ると感慨深いものがある。反面、20世紀公園整備事業が盛んであった文明的進化の時代を過ごしてきた職能の現状と将来を案じている。 それは21世紀社会が文化的深化の時代に入り量より質、機能より物語、普遍性より独自性、客観性より主観性へと理解・評価の物差しが変化し、この多様化した社会環境に対し、ガラパゴス化ともいえる現象にわが職能が陥っているのではないかと懸念している。 この状況から、毛虫が蝶になって飛翔するような脱皮を図るために、従来型の職能分類・概念の枠を外して幅広い職能と仲間の連携、さらに、アジアを中心とした国際的な場での職能領域拡大などにこの50年邁進してきた。我々はこの経験を活かして、世界を凌駕する作品を創出する責務を負っている職能であることを自覚し、次の50年に向けての記念の節目として‘今’を受け止めたい。 ■
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by harutokobayashi
| 2015-12-17 19:17
| 公園管理運営士会
「緑・環境文化を深化させた偉人」
設景家:小林治人(こばやし はると) 1989年4月、「日仏友好のモニュメント日本委員会委員」の辞令を私は貝原俊民兵庫県知事からいただき、日仏友好のモニュメント関連の会議で貝原さんにお目にかかる機会が生まれました。このプロジェクトは、「新しいコミュニケーション文明の創造」をテーマに標榜し、1991年2月13日には国際シンポジュームもスタートしています。 1995年1月12日県立淡路島公園のモニュメント建設予定地においてモニュメント建設の着工式がおこなわれました。ところが5日後の17日早朝、着工式会場近くが阪神淡路大震災の震源地となりこのプロジェクトは頓挫しました。 貝原さんは、大震災からの復興は創造的でなければならないと、復興に不可欠な専門技術者の育成が急務であるとの信念から、淡路景観園芸学校の設立(1999年に開校)さらに2000年には、「人と自然のコミュニケーション」をテーマに「淡路花博2000」の開催、自然景観に恵まれた淡路島の立地を生かした国営公園の設置など意欲的に事業化を進めておられました。これらの事業に関連して、設景家として景観面からの参加が求められていた私は、現地で貝原さんと意見交換の機会がありました。「土取場の岩石がむき出しの巨大な斜面の緑化には相当お金がかかりますね」、とお話したことがありました。貝原さんは「小林さんね、建築のことを考えるとその緑化工事費は心配することはないです」と一言、さらに「無造成斜面の既存斜面のヤマザクラがきれいでしょう」と自慢されていた姿が思い起こされます。 淡路花博2000開催の時には、我々は、「第10回国際造園家連盟アジア地区大会」を便乗開催させていただきましたが、この時地元知事として歓迎挨拶の中で「成長から成熟にいたる転換点の今、自然の摂理に従う生き方を真剣に考えるべきである」と強調されていました。別の会ではレオ・パスカーリアの「葉っぱのフレデイ」に触れ、いのちを考える機会でもあると話されたことが強く印象に残りました。 成功裡に終わった「淡路花博2000」の前年、貝原さんは「中国99昆明世界園芸博覧会」の開会式に参列された後、淡路花博への参考にと広い会場を熱心に視察されていました。 貝原さんは、常に思いやりに満ちたまなざしで人々に接しながら、復興は緑豊かな県土の創造であるとの信念で行動され活躍されたと私は受け止めました。その姿は「緑・環境文化を深化させた偉人」として強く心の奥に刷り込まれています。貝原俊民さんが逝去されたことがまだ信じられません。心からご冥福をお祈りいたします。合掌 ■
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by harutokobayashi
| 2015-12-17 19:08
| 公園管理運営士会
「造園設計職能の軌跡と展望」
はじめに 2011.3.11東日本大震災を経て、社会的変貌が余儀なくされる中で、造園設計・造園設計者(以下設計・設計者と略す) の20世紀後半における設計職能誕生前後から現代までの軌跡をたどり、明日への展望を考える資としたい。 設計の対象は公共造園と民間造園に大別される。公共造園は入札制度のもとで、手段であるべき経済活動・業が目的化され業の目標に向けた手段と化し、本来設計は精神性と生活方式が合致した質に美意識が集中されるべきであるが、業と質のはざまで苦慮している事態がある。設計者が内発的に造園文化形成を提言し、人々が安全・安心して暮らせる生活の場を支える職能として、具体的に設計者として実像を示せているかが問われる。 黎明期の組織化されない時代の先達たちの活動記録保持と、記録の正確を期すために関係者の実名を記させていただいた。関係者にはご理解いただきたい。名称には敬称を略させていただいた。 造園設計職能の黎明期 昭和25年 1950年6月~1953年7月「南北朝鮮動乱」によって日本は戦後復興に弾みがつくという皮肉な社会状況の中、米軍接収財産施設(GHQ)の設計に下山重丸、東京都の戦災復興公園設計には、井下清、以下都の職員など自治体内部で設計を実施していた。その他、旅館ホテル等民間施設の庭園設計は、戦前からの作庭家が個人的な立場で設計の分野を担ってきた。 1950年6月「ガーデン協会創立」、1954年(社)日本造園学会がIFLA正会員に、1955年日本住宅公団創立、1956年日本道路公団設立と組織・団体・制度の基盤が整い、神武景気のまえぶれ状況を呈しつつあった。 そんな中1957年6月、北村信正は、池原健一郎を誘い「遊び場の研究会」発足を呼び掛けた。この会には小川信子、石川岩雄、川本昭雄、伊藤邦衛、田畑貞寿らがいた。 この研究会は、会の成果ともいえる入谷南公園落成を機に活動に終止符を打った。 しかし、この活動の流れは1957年にスタートした「造園懇話会」に引き継がれた。(ランドスケープデザイン第2号~6号に連載、設景の思想、小林治人参照)。 1958年8月には、伊藤邦衛、池原謙一郎、石川岩雄、清水友雄、田畑貞寿、中島健らが「庭のデザイナー6人展」を銀座村松画廊で開催している。この催しは戦後我が国における最初の造園設計作品展となった。 6人展の案内状 さらに、我が国最初の「世界デザイン会議」が東京産経会館にて、1960年5月に開催された。造園関係者としては佐藤昌、中島健、池原謙一郎、田畑貞寿、前野淳一郎、三好勝彦らが本会議に出席し、第4部で池原謙一郎が霞友会館造園、入谷南公園等発表をしている。 このような斯界を取り巻く状況の中で、1964年5月第9回IFLA日本大会が佐藤昌イフラ日本大会実行委員会会長のもと、「人間生活における造園」をテーマに開催された。その成果が横山光雄編集主筆を中心に坂田道夫、前野淳一郎、田中正大、池原謙一郎、田畑貞寿らの編集協力によって「日本の造園」としてまとめられた。 第9回イフラ日本大会報告書 造園設計事務所連合発足 このIFLA世界大会開催に先駆けて、1964年3月池原謙一郎、伊藤邦衛、林茂也の3名が連絡幹事となって、造園設計事務所連合の設立を働き掛け、荒木芳邦、飯田十基、井上卓之、小形研三、小林治人、島田昭治、関田次男、田辺員人、中島健、中村善一、西川友孝、吉村巌が集まって英文併記の名簿を発行して、5月のIFLA世界大会参加者に配布した。IFLA大会後、連合仲間の造園設計職能確立に向けての機運は高まり、神田駿河台全電通会館2階に仮事務局(1994・6~1967・10)を置き良く集い、良く語り合った。 1964年には上野泰、岡田蔵司、小林治人、沼達賢一、高木浩志、笛木担らが「造園セミナー」の名のもとに、1950年代末~1960年代にかけて活躍した山手国弘主宰のイオ集団からシビルビジョン、生活装置等の視点から造園を考え、造園職能が多様・多層で有機性を持った対象であべきであることを学んだ。 1964年12月20日渋谷東急会館ロゴスキーに23名の仲間が造園設計者個人として造園作品を持って集い「第一回造園設計者の会」を開催した。 この時、いままで住宅庭園を主として活動していた飯田十基、小形研三、吉村巌、らの世代と、新しく芽生えつつある公共造園設計に挑戦しようとする世代が交流した画期的な場面となった。 同じ年の12月30日には、新宿三丁目・三姉妹に、伊藤、池原、川本、塩田、前野、三好が集い、「16日会」をサロン的に実施することを確認。1965年5月6日、神楽坂の日本住宅公団富士見分室において池原、川本、前島、三好を中心に開催された。 16日会のメモの一部 この会は参加メンバーの高齢化などにより、1975年を最後に自然解消した、しかし、そこで語られた内容は、公園緑地整備事業拡大の曙を前にして、造園設計の職能、造園ジャーナルの確立、造園夏期大学の開催(当初日本造園学会主催、現在:日本造園修景協会主催)、関東造園人の集い(現在:造園人賀詞交換会)、造園家個人の会(造園家協会か、ランドスケープ連盟か、造園技術者協会かなど激論)造園教育、資格問題の企画検討など、次々に斬新な意見が交換された。 設計界としては組織体制を固めるために、1966年12月18日銀座スエヒロに13名が集い連合組織化に向けての打ち合わせが行われた。 小坂スケッチ 1967年8月8日の暑い日、池原、伊藤、小形、小林の4名が平河町の都市計画協会常務理事・佐藤昌を訪ね、会長就任を懇願し内諾をえて、全国的な活動が開始された。 佐藤新会長のもと、会の名称を「日本造園設計事務所連合」と改め役員人事が行われた。 会長:佐藤昌、専務理事:小形研三、理事:荒木芳邦、伊藤邦衛、池原謙一郎、中島健、平井昌信、監事:小坂立夫、水野衛、事務局長:小林治人であった。 この体制で1967年9月23日には平河町都市センターにおいて官・学・民の各界代表120名が集まりにぎやかな披露パーテイを開催した。 披露パーテイにおける建設大臣挨拶 この時代は、都市環境への緑の導入手法に関すること、自然環境における保護・保全に関する調査・計画等従来の設計ではあまり前例のない仕事に、設計者たちは公園緑地事業が本格化していく動きを具体的な形で体感した。 それは、東京オリンピック時、選手村であった代々木公園の設計コンペ(1964年)、国営武蔵丘陵森林公園設計コンペ(1968年)、大泉緑地コンペ(1968年)1970年大阪千里丘陵で開催される大阪万国博覧会会場設計への参加など、重要な設計の腕試しの機会が続いた。 この頃には、日本住宅公団による団地の造園設計、日本道路公団による高速道路造園・調査・設計委託などが継続的に発注されるようになり、こうした動きに呼応して設計界も急速に拡大の道を歩み始めた。 公園緑地整備事業の拡大 1972年には、第一次都市公園等整備五ケ年計画が策定され、1976年までに9000億円が組み込まれた。都市局唯一の直轄事業である国営公園の整備促進と、これらの動きに呼応して、補助事業として公園緑地整備事業予算が地方自治体に及び、公園設計活動が全国的なスケールで展開するようになった。 倍増ペースで伸びる公園緑地事業の現場で設計者も急増した。さらに公園緑地が地域・都市の基盤的社会資本であることが認識され、公園緑地を系統的にネットワークする「緑のマスタープラン」策定が実施されるようになった。 緑のマスタープランが実施されるようになって、広域的な緑地論が展開され、公園緑地系統として、既存の公園緑地の位置づけも含めて線・帯状の整備と緑の質が意識された。河川道路などの敷地も緑の政策に加味され、面的な公園緑地整備が地域・都市基盤であるとして実現していく姿である。 国際化と職能意識改革 国内的に次々と新しい施策が施行されていく途上において、国際化も並行して進み、国際交流を通じ、職能の意識改革が求められる時代が始まっていた。 大阪万博(1970年)を皮切りに、沖縄海洋博覧会(1975年)が開催された。この二つの博覧会の会場建設には多くの連合のメンバーが現地で会場設計管理を担当した。 この時代は設計界も組織化が進み、連合のメンバーも急増していた。連合以外でも造園界では、拡大する公園緑地事業の推進に対応した専門分野の組織化が続き、公園緑地事業の拡大期は、造園界全体が組織化を進めた時代でもあった。 1976年5月には連合発足10周年記念事業を国立京都国際会館で開催した。 1979年には会員数も100社を超え1967年10月からの原宿事務局体制強化を進めた。元川崎市環境保全局次長笠原博事務局長を迎え1980年からご指導いただいたが1983年12月急逝された。誠に残念な出来事であった。1984年3月建設省より、岩田正喜事務局長をご推挙いただき、事務局も原宿から平河町へと移転した。 1980年4月には連合の公益法人化を目指して名称を「日本造園コンサルタント協会」と改め法人化に向けた準備を進め、1985年4月1日付建設大臣の認可をいただき法人化が実現した。同年4月25日には赤坂プリンスホテルにおいて法人化披露パーテイを開催し。塩島大衆議院議員、木部佳昭建設大臣、大塩洋一郎住宅・都市整備公団総裁、豊蔵一建設相官房長らが出席されて盛大であった。 また、つくば科学博覧会(1985年)では、大阪、沖縄の経験から緑関係の予算は会場建設費の中で独立させた。横浜国際博覧会(1989年)にもこの手法は応用され、建築主導の予算配分が改善された。つくば科学博覧会の開催を契機に、建設省と大阪市では、大阪花の博覧会の1990年開催を準備していた。その実現に向けて、「{社}日本造園コンサルタント協会」として作業チームを編成して構想案を作成して協力した。博覧会開催決定後は多くの協会会員が会場設計に従事して腕を振るった。 紀元2000年には、淡路島でジヤパンフローラ2000が開催されたが、この会場設計でも協会会員が活躍している。 このような国際的な催しが盛んになる以前、1983年から建設省の提唱で「全国都市緑化フェアー」が毎年全国持ち回りで開催されるようになっていた、これは、緑の国体にたとえられているが、この計画設計には、財団法人都市緑化基金のもとで、設計者達が腕を振るっていた。 1960年代から1980年代までの成長期を経て、各種の国際会議が開催された。特に1985年IFLA世界大会を再び日本(東京、神戸)で開催することになった。この大会時には、つくば科学博覧会開催中ということもあり日本の設計力を世界に示す良い機会であった。 1985・5・27イフラ日本大会開会式で歓迎挨拶する佐藤昌会長 高度経済成長の余波が続く1990年代前半は、世界各国のIFLA世界大会などへの積極的な参加が続けられ、日本の設計職能が広く世界の仲間に認知された時代でもあった。 このような状況の中で1990年女性造園家の会、1993年日本都市計画家協会、1995年7月日本デザイン機構、1995年7月IFLAジャパン、1995年9月日本ランドスケープフォーラム、等多くのグループがテーマを持って集まり活動を開始している。 しかし、1990年代後半は急速に設計対象となる事業が激減し設計者の苦難の時代が始まろうとしていた。 1996年6月社団法人日本造園コンサルタント協会」も名称を「社団法人ランドスケープコンサルタンツ協会」へと名前を改称し今日に至っている。 2000年にはIFLAアジア地区大会が淡路島で開催されたが、アジア地区だけでなく、ランドスケープアライアンスメンバーである。アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、オーストラリア等の要人も参加した。 職能業態の私的展望 設計者と職能の軌跡について、手元の資料と自らの体験記録をもとに20世紀後半について述べてきた。2000年以降の国立公園、景観・緑三法、指定管理者制度、3.11を受けて国土強靭化などと職能に関連する課題は多いが別の機会に譲るとして、私的な立場から、今後の職能について考えてみたい。 自らの半世紀に渡る設計者としての軌跡を振り返ったとき、20世紀と大きく異なる現象は、現代は電脳時代であることである。電脳時代の今は造園設計にかかわる情報も瞬時にして広く世界に普遍化し、造園設計が一つの専門に特定されない専門性を持つようになり、種々の専門の関係性の中に存在する総合性が求められる職能と化していることである。 今、設計界は、日本の「原風景」を構成する地域固有の自然・風土・歴史に根差した文化の生命性を捉える、生き物の技術が基軸であることを踏まえ、地域の生命系を根底に置きながら農業と工業、農村と都市など地域社会との問題を考えながら、自然・生命・人間のシステムを中心にすえて、諸科学の横断的な中で設計していく全的、生態学的発展と共振していく職能であることを前提に、将来を展望し挑戦する設計者の出現が期待できる時代になった。 なぜか?現在日本の設計者は世界の中で活躍できる資質と経験を積んだ者が多くなったことである。さらに国内的にも国土運営の中で基軸的職能として期待されている。 この期待に応えるためにCLAは時代のニーズに呼応できる柔軟な運営を実施して、内外に領域を拡大できる状況にある。今は具体的に東日本被災地で2020年ころを目途に国際震災復興博覧会開催を内外の関連団体に働き掛けて、新しいタイプの国際博覧会開催を提言していくことではないか、そこから21世紀に向けての骨太の展望が俯瞰できると確信する。 参考文献 ①財団法人世界デザイン会議日本運営会(1960)世界デザイン会議報・第6・7号 ②第9回IFLA日本大会実行委員会(1964)「日本の造園」 ③小林治人(1982)都市計画協会報 「(社)日本造園コンサルタント協会について」 ④(1985)「法人化披露パーテイー」日本造園タイムス第131号 ⑤小林治人(1995)「設景」その発想と展開 マルモ出版 ⑥(1995)「法人化10周年を祝う」ビジョンを策定環境緑化新聞第297号 ⑦小林治人(2006)「造園設計家の群像と職能」(一社)日本公園緑地協会機関誌「公園緑地」VOL 67・4号34~36P ■
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by harutokobayashi
| 2013-09-30 09:25
| 職能論
2013年9月27日とっとり花回廊、敷地面積50ha1990年代初頭TLAの計画・設計である。
建築の実施設計はアーキテクトファイブである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() この巨大南瓜の写真までは小林治人の撮影である。 ![]() チューリップとフラワードーム(写真提供「とっとり花回廊」) ■
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by harutokobayashi
| 2013-09-13 09:00
| 花の景
1973年3月、元上野動物園園長、林壽郎先生とアフリカの野生動物を学ぶためケニヤタンザニアをサファリした。アフリカの帰りにはナイロビから南仏ニースに飛んだ。ニースはカーニバルの翌日ということもあり祭りの後始末が大変な状況にあった。ニースに一泊し我々は、ニースからマルセイユまで南仏の海岸を走りそこで一泊、後はモンペリエ経由、当時フランス政府が力を入れてリゾート開発を進めていたラングドックルシオンに向かった。グランモット他カップダック等開発状況を見て回ったものである。
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ラングドックルシオンの中で最初に整備が進んだグランモット ![]() ![]() ![]() ![]() ■
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by harutokobayashi
| 2013-06-18 15:54
| 国際交流
「公園管理運営士会関西支部設立」
平成25年度第一回公園管理運営士会理事会・関西支部設立総会・公園管理運営士会定時総会が、平成25年6月12日、午後13時より15時にかけて大阪府営服部緑地都市緑化植物園会議室において実施された。 定時総会では平成25年度中に関西支部設立に続いて、北海道支部、関東支部、九州支部設立が予定されていること、公園管理運営士の資格が国際資格としての承認を得るためにIFPRA等で検討していること、指定管理者になるために公園管理運営士の存在が不可欠である方向に向かっている現状を理解すること。このことなどを広く業務発注者である自治体に働きかけていく、など活動の骨子が原案通り可決された。 現在公園管理運営士の有資格者が2000名有余おり、その中で当会の会員が6月現在600名であるが、未加入の人々に加入することを進める。そのためにも若い会員が多い当会を魅力ある会にしていかなければならないなどが確認された。 15時から兵庫県立大学名誉教授の中瀬勲先生に「これからのパークマネージメント」についてご講演をいただき、16時から17時にかけてこのテーマにそって意見交換会が行われた。ご講演の骨子は、今まで造る人と、運営する人が分離していたこれでは御客は来ない。この両者をつなぐのが公園管理運営士の仕事である。この大切な業務を担当する公園管理運営士は、従来のしがらみから脱皮して、「組織改革+意識改革」を自主的に行うこと、さらに狭い専門の分野の中だけでなく経営理論、固定経費・流動的経費、経営採算点、顧客満足度、顧客の囲い込み、顧客の上昇階段、組織経営等について学習することの重要性が海外の事例なども交えながら熱く語られた。 先生との意見交換の中で印象に残ったのは、指定管理者としてワーキングプアーを生み出してはならない、ワーキングプアーを生み出さないようにするためには、顧客の側に立ったサービスに重点を置いた収益事業展開を積極的に実施するなどもっと努力すべきで、既存の慣習など一度に打破しなくても運用で緩やかに改善して成功している例もあることが語られ、従来のマニュアルに縛られないよう、創造的業務展開の先導者として公園管理運営士は日々努力すべきである趣旨が語られた。これらの催しの後懇親会が行われた。 2013・6・13文責:小林治人 ![]() 右から二人目支部長に選ばれた糸谷正俊さん他役員の皆さん ![]() 中瀬勲兵庫県立人と自然の博物館館長 ![]() ![]() ![]() ![]() 6月16日北海道支部設立総会に参加を呼びかける山下和史さん ![]() この日は緑化植物園のアジサイがきれいでした。 ![]() ![]() ![]() ![]() ■
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by harutokobayashi
| 2013-06-13 14:19
| 公園管理運営士会
6月8日、東日本の被災地に送るチューリップ、ムスカリの球根堀を行った。管理センターの万全の準備の元、事前参加申込者350余名、来園中に短時間参加者も含めると700名前後の参加者があった。掘り取られた球根は約2万球、今後さらに作業が続けられる。この公園のチューリップは新品種が多く、ウイルスなどに強くないものもあるので予防処置をして、厳選した球根を現地に送る予定でいる。
また土曜日の中参加された幼稚園生は大変熱心に作業され、そのかわいい姿に参加者のみなさんが微笑んで楽しそうであった。 掘り取り作業の後、シンガーソングライターのshayleeさんのヒーリングポップに感動的なひと時を持った。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 一人のかわいらしい女の子が、一人離れてshayleeさんの歌に聞き入っていた姿が心に残った。 ![]() ■
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by harutokobayashi
| 2013-06-09 21:05
| 東日本に花を咲かせ隊
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カテゴリ
全体 東日本に花を咲かせ隊 記録・含震災関連 公園管理運営士会 設景の思想 国際交流 庭園作品 ベルゲン作庭日記 花の景 都市の景 職能論 光の景 樹木の景 池原謙一郎 野の鳥・生き物等 海の景 グーグルでたどる設景活動碌 未分類 以前の記事
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