文化としての公園づくり

文化としての公園づくり Making a Park as a Culture

小林 治人 Haruto KOBAYASHI

株式会社東京ランドスケープ研究所会長、

株式会社国際設景集団社長、

一般社団法人ランドスケープコンサルタンツ協会、

一般社団法人公園管理運営士会 顧問

文明的進化によって成熟化が進んだ現代社会は、 ネットによる情報システムによって多様な個人が国 境を超えて容易に交錯し、地球規模で連鎖するようになった。その結果、個人という最小の社会単位が自国以外の非日常的異文化を求めて観光目的地を選択できるようになり、今まで人気のあった東京、京都、大阪、などの観光スポット、中でも日本人の精神文化の軸をなす神社・仏閣・城郭・日本庭園に加え、地域の日本的生活文化の場として「和の文化」を求める傾向が全国的な広がりを見せている。今では「国営ひたち海浜公園」、「国営昭和記念公園」など都市公園も観光目的地に選ばれるようになった。これらの大規模公園は一見和洋折衷式の空間構成に見られがちな面もあるが、海外の人には日本的発想による現代の巨大庭園として受け止められている側面があることに注目したい。20世紀後半の半世紀をかけて10万ヵ 所以上の都市公園を整備してきた中で、現代日本の公園計画設計のあり方、施工の技が日本庭園作庭の長い歴史に培われた思想と技に支えられていることの証しであると受け止めたい。他方、年齢を問わない元気な超高齢化社会の出現は、高齢者の日常生活圏に健康促進施設としての公園整備がユニバーサルデザインされていることで、

地域の人々の健康保持に貢献できる配慮が不可欠なものとなっている。また、都市部において遊び盛りの子供たちが外で遊びやすいように工夫した公園整備については、ただ机上での発想だけでなく基礎的な調査の裏付けによる計画設計が必要で、すでに優れた遊具など一般化しているが、生き物空間である公園でなければ体験できない、公園空間構造のあり方が問われている1)。さらに国際的巨大流通システム の出現や、ペット産業の隆盛は多様な外来種の侵入 の機会を増やし、わが国固有の生態系に悪影響を与えている。外来種の一部は、生物多様性を標榜する公園でのコガタスズメバチ、マダニなど多数の繁殖により、安心・安全な公園利用に不安を抱かせてもいる。これら多様な社会的変化の中で、公園事業関係者たちは基本的な命題である公園とは何か?公園はいかにあるべきか?と機会あるごとに「公園論」 2) を繰り返してきた。CLA3) の仲間と公園の計画設計について議論を重ねる中で、通常設計業務が終了し図面を提出した後は、入札によって選ばれた施工会社が工事を行う現在の仕組みから、設計の意図が十分現場に反映しないことが多く、残念な思いをすることがある。自然の素材である岩や樹草を主材料とする公園工事では、図面では伝えられない素材の心を理解することが必要であり、素材との対話が困難な現状では文化度が低くなりがちで、施工管理は設計と一体的な行為として今後考えるべきである。このようにして完成した公園を管理運営していくQPA4) の仲 間の仕事は、実に多様で複雑な内容が求められ、時 間の経過の中で利用者と公園の間をゼネラリストと してプロヂュースする資質が問われる。このような時、社会的要請にこたえて今回、都市公園法が改正された5)。この改正は、多様な公園文化 形成を重視するという基本的道筋を示したもので、 人々の公園に対する期待は大きなものとなってきた。この社会的期待に沿うために、私は和の地域文化を強調した公園づくりを目指すべきであると考える。公園整備にあたっては、従来の機能的・効率的・定型的秩序の維持推進を大命題とした文明的進化に偏りがちであった姿勢から、科学的・論理的立場を踏まえ6)、公園の持つ特性としての地域性・地方性・ 土着性を活かしながら、地域文化の核となる固有性 の高い公園創出を目指すことが必要であると考える。地域ごとに異なる人材・素材利用を基本とした土着の公園創出、地域の柱である在地性(郷土・地域・地方など、個性や性格を持った土地)、在時性(特定の時・時点・時期)、在人性(その土地、その土地に生きた人) 7) に学識のある主観性が加わって地域の魅 力を高める芸術的公園創出へと結びつくと考える。 今回の法改正の目指す公園利用運営に関する一連の開放的で自由度の高い方向づけは、一大快事として歓迎するものであるが、文明的進化が保持してきた公園DNAの不易流行の存在をいかに調和融合させ るか、たとえば公園構成要素である諸施設の物理的 耐久性、樹草の遷移や枯死などの生命性、人々のレクリエーションや防災性などの機能性などを考えたとき8)、公園の空間的関係における位置、人間と人間、 人と物の空間的位置という確認にとどまらず、社会 的、経済的な位置は時間とともに変化し、公園は限られた都市空間の中で直接的に影響を受ける9)。この 時、超長期的公園事業の継続は社会的・精神的な面

においてわれわれは何が起ころうとも「公園永遠不死・不滅」の思想を貫く確固たる覚悟を持たなければならない。現在描く理想的な「文化としての公園」創造を実現するための文化的深化追求の道程には、時として公園DNAを無視したリスクを伴うこともある かもしれないが、このリスクの弊害を避けるために は、文明的進化と文化的深化がタテ糸とヨコ糸の関係でバランスよく相互嵌入させなければならない。鎖国時代に一定の様式が完成した日本庭園が、明治維新による西洋化、第一次世界大戦後の和洋折衷による近代化、第二次世界大戦後は折衷主義を否定しながら国内、地域、国際、と各地に作庭を続け、大規模公園の創出にいたるまで激変する時間と空間の中で庭園・公園は進化し、深化を繰り返してきた歴史があるが10)、国家的催事である2020年オリンピッ ク・パラリンピック東京大会開催を控えている今、来日した人々に一目見ただけで心が揺さぶられるような日本庭園文化の技を生かした街並みや競技施設を取り巻く公園の景に11)、探していた日々幸せに過ごせるための答えの一部が見出せるような、わかり やすく、親しみやすい、包容力のある多様性空間創出を目指したい。そのことが2020年以降にあるべき 「文化としての公園」の姿を示すことになると考える。

参考・引用文献 1

大屋霊城:都市の児童遊場の研究,1927年(昭和2年)稿 2

小林治人:「設景」その発想と展開,マルモ出版,1996 3

一般社団法人ランドスケープコンサルタンツ協会 4

一般社団法人公園管理運営士会 5

都市公園法改正を聞く,環境緑化新聞 758,2017715 6

蓑茂寿太郎:ランドスケープ計画の科学と実際,東京農業大学農 学週報第62巻第1,2017 7

一志茂樹:地方史に生きる,平凡社,1984 8

池原謙一郎:公園改造に、空間の寿命を思う。日経アーキテクチュ ,1981817日号 9

久保貞:景観設計への歩み 久保貞論文集,1986 10

神代雄一郎:現代の名庭 日本の庭園7,講談社,19801128 11

進士五十八:隈研吾氏の「庭の時代、コミュニケーションの時代」 ,平成28年度公園緑地研究所調査研究報告

注記:この原稿は、「公園緑地」 Vol.78 No.2 2017 巻頭言 として掲載されたものである。


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# by harutokobayashi | 2018-11-07 15:52 | 職能論
設景・職能のあゆみ

「設景・職能のあゆみ」

設景家:小林治人

株式会社東京ランドスケープ研究所会長・株式会社国際設景社長

20世紀後半~21世紀初頭の「設景」

私は、1961年3月東京農業大学卒業後、新潟県土木部技術吏員として2年余の短い間に道路、河川、砂防、災害復旧、区画整理事業などの現場で、現場測量から実施設計、さらに水害時の救援などについて実践的修行を経験することができた。

1963年5月官職を辞し、設景の道を拓く努力を始めることにした。この時期は翌年に東京オリンピックを控え関連事業が各地に急速に進められていた。

1955年7月25日には「日本住宅公団法」に基づく特殊法人「日本住宅公団」が設立されていて「住宅建設十箇年計画」のもと、我が国の貧困な住宅事情を解決するための事業が急ピッチで進められ、集合住宅地の造園設計業務の委託がスタートしたばかりの時代であった。ほぼ時を同じくして東京都をはじめ地方自治体からの調査・計画・設計業務の委託が開始されはじめた。

1964年、私に依頼があったのが日本住宅公団(現在の「都市再生機構」)東京支社所管の小平団地の造園設計であった。この時ちょうど長男の出産を控えていたところから、子供に喜ばれる施設はと考え設計したのが宇宙船をイメージした広場であった。

1964年には第九回IFLA日本大会(5月13日~26日)が「人間生活と造園」をテーマに東京・京都を中心に開催されることを受け同年3月には、「造園設計事務所連合」(15社)の創設に参加した。日本経済が急速に右肩上がりの発展をする幕開けの時代でした。その後、1968年6月11日に株式会社東京ランドスケープ研究所を設立登記、

 以後ランドスケープ・造園設計分野における専門家集団として、大地に根差した仕事をすることを肝に銘じ、設景職能確立発展のために努力してきた。

 設景の仕事を「人と自然の関係を、科学的・芸術的によく理解して、人と自然の関係について総合的に調和ある空間として大地に創造し、これを持続的に管理運営していくこと」と定義してTLAの基本理念としている。

設景の仕事は、主として大地の環境文化創造そのものであり、幅広い専門家、時には広く市民の参加も促しながら協働し、個人の力を超えた超頭脳的英知で大地と対話することで成果を導き出すものであると考えて歩んだ半世紀について、「大地との対話集」として未完成ながらまとめてみた。

1960年代 (設景職能確立の時代)

1964年の東京オリンピック開催に向けての会場整備偉業などは、行政関連組織、大学など研究機関が中心に担当された時代で我々が参加する機会は皆無に等しかった。しかし、各地に住宅開発関連業務が動き出し、民間事業として別荘開発ブームも起きて、無造成建設計画による開発手法を提唱していた私は、自然地形を活かした自然立地的リゾート地計画の受託、大阪万博会場計画への参画など順調なスタートを切ることができた。

1970年代 (地域計画・大規模公園計画と海外への挑戦時代)

建設省(現国土交通省)による首都50Km圏域における緑地現況調査・保全計画、緑のマスタープラン、日本住宅公団による大規模住宅団地の造園計画、全国各地からの公園計画設計業務が動き出し、仲間の同業者も増えてきた。1975年の沖縄海洋博覧会会場設計では「造園設計事務所連合」が共同で会場の造園計画・設計・施工管理を実施することができた。

また、日本の開発途上国への専門家派遣も盛んとなり、JICAの専門家としてアフリカ(タンザニア・ケニア・ウガンダ地域)の野生動物保護計画、インドネシア中部ジャワのボルブドール国営史跡公園計画のほか、北イエーメン、シンガポール、コロンビア、マレーシア、トンガなど海外プロジェクトへの専門家派遣などの挑戦があった。

1980年代 (国際協働の推進と国際貢献の時代)

この時期は、造園設計事務所連合の仲間も100社を超えた。建設省の国営公園整備事業を筆頭に、全国各地の大規模公園の仕事の受注が続く中で、民間のリゾート事業も益々盛んとなり開発事業者による要請で海外のリゾートホテル、ゴルフ場、スキー場などの設計者とのコラボレーションが急増した。私の場合は、カルフォルニアのコスタ・メサにTLA・CAを設立、国際協働の仕事が続いた時代であった。

また私はIFLAの第一副会長(1987~1991、現在はこの制度はIFLAにない)に選出されユネスコ傘下の国際組織の企画運営を担当して、国際的にあまり強固といえない我々の職能確立向上にために奔走した。

1990年代 (模索した時代)

 この年代の前半は、業務受注も多くなり多忙を極めた。TLAスタッフも140人前後、海外7カ国の長期研修生も同時に受け入れ、シンポジューム開催など国際交流も超多忙な時代であった。1992から現在のCLA(以前の造園設計事務所連合)会員が200社を超えるまでになりこのメンバー構成は2003年まで続き職能組織の元気さを斯界に示していたが、以降は徐々に下降線をたどり、従来型国内業務の成長の限界見えてきた時代でした。

 業務の内容も環境・福祉重視の時代となり既存の都市・地域環境のバリヤフリー化、ユニバーサルデザイン化が叫ばれ、また、住民参加による公園造りが増えてきた。

2000年代(海外で元気を充電)

 国内的には、公共事業としての社会資本整備の方式が変化し、公園緑地整備事業の激減する中で、TLA組織のダウンサイジングを進めながら、国内業務受注で仲間と入札などで競い合うことを極力避けるため特に中国の業務受注に挑戦した。中国では国内業務では体験できない規模と内容のプロジェクトが多く、ランドスケープに対する業務的視野・領域拡大を図ることができた。

さらにノルウエーのベルゲン大学から2005年が日本とノルウエーの国交樹立100周年であるところから、その記念事業としてに両国友好の庭園の設計を依頼され2008年5月まで13回現場に通い完成させた。

2010年代(新設景職能確立に向けて)

21世紀になって、中国とノルウエーにおける設景活動、中でも日本庭園の作庭を通じて感じたことは日本庭園に対する海外の人たちの関心の高さであった。経済の発展した中国では国際的視野が広い人が多くなり、高度な専門的技術ばかりでなく、地域ごとに異なる大地の歴史・風土などの環境物語を的確に読み取りながら実践的に活動できる専門家を求める傾向が強くなっている。美しい絵だけでは通用しない時代となったといえる。

これら時代の変化の中で、今後のわが設景職能のあり方を考えた時、21世紀の世界的重点課題である、生物多様性への対応、都市文明と環境文化、高齢化社会と健康、安全安心の子育て環境創造、など今までに蓄積した豊富な緑・環境計画の思想と技を世界に向けて発信し、新しい公園整備・管理・運営による環境力発揮の手立てなど検討しながら、海外諸国との連携を深めることが不可欠な時代となった。

環境・建築・土木・工芸・美術など環境文化創造にかかわる内外の関連分野の人たちとの人的ネットワークを活かしていきたい。


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# by harutokobayashi | 2018-11-07 14:57 | 職能論
一般社団法人公園管理運営士会(QPA)
2015年のQPA      
今年は2015年11月20日、公園管理運営士会が一般社団法人公園管理運営士会として登記され、社会的立場がはっきりしたことを受け、会全員が社会的責任を自覚し社会に対して認知度を高めながら、関係団体とも連携をとりながら、都市公園事業者に対して具体的な政策提言などしやすくなりました。任意団体としてスタートして10年間、長期的展望に立って当会の道筋をつけられた事務局をはじめ、全国各地支部の真摯なご努力に対して感謝と敬意を表します。
都市の世紀における公園が、社会の中に深く溶け込んで、ますます市民生活に密着していく時代、公園の安心・安全確保など公園管理運営士に課せられた社会的責任はますます大きくなっています。
公園を見ればその地域がわかるといわれます。公園が評価されない地域では主として財政的に公園を維持できないなどが理由に挙げられていますが、元気な公園利用者が増えれば、主に福祉関係、医療費の削減につながるともいわれます。
我が国の指定管理者制度の進展は、応募者の知識・能力を競う機会が増え、公園管理運営思想・技術がますます進化し、深化させています。
さらに、公園管理運営面から考案された植栽が、国際観光資源として人気を博して、地域活性化に貢献している事例もありますが、このような実績を持つQPAの資格は、World Urban Park(WUP)に公認されたため、QPA会員はWUP日本支部に加入して申請すれば「公認国際公園士」の資格を得られることになりました。また、超高齢化社会の到来は、シニア層の公園利用者が増えて、その対応に若い女性の活躍場面も増えています。
QPA有資格者は全国で2000名を超えました、当会の活動は法人化を契機にしてますます内外で活発な活動を展開いたします。新しい日本の造園産業の一翼を担うことに生きがいを見いだせると感じる未入会の方々の入会をお勧めします。
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# by harutokobayashi | 2015-12-17 19:22 | 公園管理運営士会
ランドスケープコンサルタント協会
ランドスケープコンサルタンツ協会(CLA)次の50年へ

敗戦後、我が国造園設計の職能は、1950年を境にその黎明期を迎え、南北朝鮮動乱による米軍接収財産施設設計、東京都の戦災復興公園設計、旅館・ホテル・工場等民間施設の庭園設計など、戦前から匠の技を受け継いできた諸先輩が設計の分野を担っていた。
1954年社団法人日本造園学会は、IFLAに正会員として加盟した。敗戦後の日本において伝統的日本庭園文化を礎に、欧米先進国の造園も参考にしながら、造園職能活動が活発化していることを世界に知らしめるため、1964年5月第9回IFLA日本大会を東京・京都を主な舞台として開催した。このIFLA日本大会開催に向けて、日本における造園設計者の存在観を示すため1964年3月、現在のCLAの前身「造園設計事務所連合」が職能団体として誕生した。
CLAが創立50周年を迎えた今、自らの軌跡を振り返ると感慨深いものがある。反面、20世紀公園整備事業が盛んであった文明的進化の時代を過ごしてきた職能の現状と将来を案じている。
それは21世紀社会が文化的深化の時代に入り量より質、機能より物語、普遍性より独自性、客観性より主観性へと理解・評価の物差しが変化し、この多様化した社会環境に対し、ガラパゴス化ともいえる現象にわが職能が陥っているのではないかと懸念している。
この状況から、毛虫が蝶になって飛翔するような脱皮を図るために、従来型の職能分類・概念の枠を外して幅広い職能と仲間の連携、さらに、アジアを中心とした国際的な場での職能領域拡大などにこの50年邁進してきた。我々はこの経験を活かして、世界を凌駕する作品を創出する責務を負っている職能であることを自覚し、次の50年に向けての記念の節目として‘今’を受け止めたい。
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# by harutokobayashi | 2015-12-17 19:17 | 公園管理運営士会
QPA
「緑・環境文化を深化させた偉人」
設景家:小林治人(こばやし はると)

1989年4月、「日仏友好のモニュメント日本委員会委員」の辞令を私は貝原俊民兵庫県知事からいただき、日仏友好のモニュメント関連の会議で貝原さんにお目にかかる機会が生まれました。このプロジェクトは、「新しいコミュニケーション文明の創造」をテーマに標榜し、1991年2月13日には国際シンポジュームもスタートしています。
1995年1月12日県立淡路島公園のモニュメント建設予定地においてモニュメント建設の着工式がおこなわれました。ところが5日後の17日早朝、着工式会場近くが阪神淡路大震災の震源地となりこのプロジェクトは頓挫しました。
貝原さんは、大震災からの復興は創造的でなければならないと、復興に不可欠な専門技術者の育成が急務であるとの信念から、淡路景観園芸学校の設立(1999年に開校)さらに2000年には、「人と自然のコミュニケーション」をテーマに「淡路花博2000」の開催、自然景観に恵まれた淡路島の立地を生かした国営公園の設置など意欲的に事業化を進めておられました。これらの事業に関連して、設景家として景観面からの参加が求められていた私は、現地で貝原さんと意見交換の機会がありました。「土取場の岩石がむき出しの巨大な斜面の緑化には相当お金がかかりますね」、とお話したことがありました。貝原さんは「小林さんね、建築のことを考えるとその緑化工事費は心配することはないです」と一言、さらに「無造成斜面の既存斜面のヤマザクラがきれいでしょう」と自慢されていた姿が思い起こされます。
淡路花博2000開催の時には、我々は、「第10回国際造園家連盟アジア地区大会」を便乗開催させていただきましたが、この時地元知事として歓迎挨拶の中で「成長から成熟にいたる転換点の今、自然の摂理に従う生き方を真剣に考えるべきである」と強調されていました。別の会ではレオ・パスカーリアの「葉っぱのフレデイ」に触れ、いのちを考える機会でもあると話されたことが強く印象に残りました。
成功裡に終わった「淡路花博2000」の前年、貝原さんは「中国99昆明世界園芸博覧会」の開会式に参列された後、淡路花博への参考にと広い会場を熱心に視察されていました。
貝原さんは、常に思いやりに満ちたまなざしで人々に接しながら、復興は緑豊かな県土の創造であるとの信念で行動され活躍されたと私は受け止めました。その姿は「緑・環境文化を深化させた偉人」として強く心の奥に刷り込まれています。貝原俊民さんが逝去されたことがまだ信じられません。心からご冥福をお祈りいたします。合掌
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# by harutokobayashi | 2015-12-17 19:08 | 公園管理運営士会
2014年晩秋の庭園
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# by harutokobayashi | 2014-11-08 06:21 | ベルゲン作庭日記
造園設計職能の変遷
「造園設計職能の軌跡と展望」
はじめに
2011.3.11東日本大震災を経て、社会的変貌が余儀なくされる中で、造園設計・造園設計者(以下設計・設計者と略す) の20世紀後半における設計職能誕生前後から現代までの軌跡をたどり、明日への展望を考える資としたい。
設計の対象は公共造園と民間造園に大別される。公共造園は入札制度のもとで、手段であるべき経済活動・業が目的化され業の目標に向けた手段と化し、本来設計は精神性と生活方式が合致した質に美意識が集中されるべきであるが、業と質のはざまで苦慮している事態がある。設計者が内発的に造園文化形成を提言し、人々が安全・安心して暮らせる生活の場を支える職能として、具体的に設計者として実像を示せているかが問われる。
黎明期の組織化されない時代の先達たちの活動記録保持と、記録の正確を期すために関係者の実名を記させていただいた。関係者にはご理解いただきたい。名称には敬称を略させていただいた。
造園設計職能の黎明期
昭和25年 1950年6月~1953年7月「南北朝鮮動乱」によって日本は戦後復興に弾みがつくという皮肉な社会状況の中、米軍接収財産施設(GHQ)の設計に下山重丸、東京都の戦災復興公園設計には、井下清、以下都の職員など自治体内部で設計を実施していた。その他、旅館ホテル等民間施設の庭園設計は、戦前からの作庭家が個人的な立場で設計の分野を担ってきた。
1950年6月「ガーデン協会創立」、1954年(社)日本造園学会がIFLA正会員に、1955年日本住宅公団創立、1956年日本道路公団設立と組織・団体・制度の基盤が整い、神武景気のまえぶれ状況を呈しつつあった。
そんな中1957年6月、北村信正は、池原健一郎を誘い「遊び場の研究会」発足を呼び掛けた。この会には小川信子、石川岩雄、川本昭雄、伊藤邦衛、田畑貞寿らがいた。
この研究会は、会の成果ともいえる入谷南公園落成を機に活動に終止符を打った。
しかし、この活動の流れは1957年にスタートした「造園懇話会」に引き継がれた。(ランドスケープデザイン第2号~6号に連載、設景の思想、小林治人参照)。
1958年8月には、伊藤邦衛、池原謙一郎、石川岩雄、清水友雄、田畑貞寿、中島健らが「庭のデザイナー6人展」を銀座村松画廊で開催している。この催しは戦後我が国における最初の造園設計作品展となった。
6人展の案内状
さらに、我が国最初の「世界デザイン会議」が東京産経会館にて、1960年5月に開催された。造園関係者としては佐藤昌、中島健、池原謙一郎、田畑貞寿、前野淳一郎、三好勝彦らが本会議に出席し、第4部で池原謙一郎が霞友会館造園、入谷南公園等発表をしている。
このような斯界を取り巻く状況の中で、1964年5月第9回IFLA日本大会が佐藤昌イフラ日本大会実行委員会会長のもと、「人間生活における造園」をテーマに開催された。その成果が横山光雄編集主筆を中心に坂田道夫、前野淳一郎、田中正大、池原謙一郎、田畑貞寿らの編集協力によって「日本の造園」としてまとめられた。
 第9回イフラ日本大会報告書
造園設計事務所連合発足
このIFLA世界大会開催に先駆けて、1964年3月池原謙一郎、伊藤邦衛、林茂也の3名が連絡幹事となって、造園設計事務所連合の設立を働き掛け、荒木芳邦、飯田十基、井上卓之、小形研三、小林治人、島田昭治、関田次男、田辺員人、中島健、中村善一、西川友孝、吉村巌が集まって英文併記の名簿を発行して、5月のIFLA世界大会参加者に配布した。IFLA大会後、連合仲間の造園設計職能確立に向けての機運は高まり、神田駿河台全電通会館2階に仮事務局(1994・6~1967・10)を置き良く集い、良く語り合った。
1964年には上野泰、岡田蔵司、小林治人、沼達賢一、高木浩志、笛木担らが「造園セミナー」の名のもとに、1950年代末~1960年代にかけて活躍した山手国弘主宰のイオ集団からシビルビジョン、生活装置等の視点から造園を考え、造園職能が多様・多層で有機性を持った対象であべきであることを学んだ。
1964年12月20日渋谷東急会館ロゴスキーに23名の仲間が造園設計者個人として造園作品を持って集い「第一回造園設計者の会」を開催した。
この時、いままで住宅庭園を主として活動していた飯田十基、小形研三、吉村巌、らの世代と、新しく芽生えつつある公共造園設計に挑戦しようとする世代が交流した画期的な場面となった。
同じ年の12月30日には、新宿三丁目・三姉妹に、伊藤、池原、川本、塩田、前野、三好が集い、「16日会」をサロン的に実施することを確認。1965年5月6日、神楽坂の日本住宅公団富士見分室において池原、川本、前島、三好を中心に開催された。
 16日会のメモの一部
この会は参加メンバーの高齢化などにより、1975年を最後に自然解消した、しかし、そこで語られた内容は、公園緑地整備事業拡大の曙を前にして、造園設計の職能、造園ジャーナルの確立、造園夏期大学の開催(当初日本造園学会主催、現在:日本造園修景協会主催)、関東造園人の集い(現在:造園人賀詞交換会)、造園家個人の会(造園家協会か、ランドスケープ連盟か、造園技術者協会かなど激論)造園教育、資格問題の企画検討など、次々に斬新な意見が交換された。
設計界としては組織体制を固めるために、1966年12月18日銀座スエヒロに13名が集い連合組織化に向けての打ち合わせが行われた。
小坂スケッチ
1967年8月8日の暑い日、池原、伊藤、小形、小林の4名が平河町の都市計画協会常務理事・佐藤昌を訪ね、会長就任を懇願し内諾をえて、全国的な活動が開始された。
佐藤新会長のもと、会の名称を「日本造園設計事務所連合」と改め役員人事が行われた。
会長:佐藤昌、専務理事:小形研三、理事:荒木芳邦、伊藤邦衛、池原謙一郎、中島健、平井昌信、監事:小坂立夫、水野衛、事務局長:小林治人であった。
この体制で1967年9月23日には平河町都市センターにおいて官・学・民の各界代表120名が集まりにぎやかな披露パーテイを開催した。
披露パーテイにおける建設大臣挨拶
この時代は、都市環境への緑の導入手法に関すること、自然環境における保護・保全に関する調査・計画等従来の設計ではあまり前例のない仕事に、設計者たちは公園緑地事業が本格化していく動きを具体的な形で体感した。
それは、東京オリンピック時、選手村であった代々木公園の設計コンペ(1964年)、国営武蔵丘陵森林公園設計コンペ(1968年)、大泉緑地コンペ(1968年)1970年大阪千里丘陵で開催される大阪万国博覧会会場設計への参加など、重要な設計の腕試しの機会が続いた。
この頃には、日本住宅公団による団地の造園設計、日本道路公団による高速道路造園・調査・設計委託などが継続的に発注されるようになり、こうした動きに呼応して設計界も急速に拡大の道を歩み始めた。
公園緑地整備事業の拡大
1972年には、第一次都市公園等整備五ケ年計画が策定され、1976年までに9000億円が組み込まれた。都市局唯一の直轄事業である国営公園の整備促進と、これらの動きに呼応して、補助事業として公園緑地整備事業予算が地方自治体に及び、公園設計活動が全国的なスケールで展開するようになった。
倍増ペースで伸びる公園緑地事業の現場で設計者も急増した。さらに公園緑地が地域・都市の基盤的社会資本であることが認識され、公園緑地を系統的にネットワークする「緑のマスタープラン」策定が実施されるようになった。
緑のマスタープランが実施されるようになって、広域的な緑地論が展開され、公園緑地系統として、既存の公園緑地の位置づけも含めて線・帯状の整備と緑の質が意識された。河川道路などの敷地も緑の政策に加味され、面的な公園緑地整備が地域・都市基盤であるとして実現していく姿である。
国際化と職能意識改革
 国内的に次々と新しい施策が施行されていく途上において、国際化も並行して進み、国際交流を通じ、職能の意識改革が求められる時代が始まっていた。
大阪万博(1970年)を皮切りに、沖縄海洋博覧会(1975年)が開催された。この二つの博覧会の会場建設には多くの連合のメンバーが現地で会場設計管理を担当した。
この時代は設計界も組織化が進み、連合のメンバーも急増していた。連合以外でも造園界では、拡大する公園緑地事業の推進に対応した専門分野の組織化が続き、公園緑地事業の拡大期は、造園界全体が組織化を進めた時代でもあった。
1976年5月には連合発足10周年記念事業を国立京都国際会館で開催した。
 1979年には会員数も100社を超え1967年10月からの原宿事務局体制強化を進めた。元川崎市環境保全局次長笠原博事務局長を迎え1980年からご指導いただいたが1983年12月急逝された。誠に残念な出来事であった。1984年3月建設省より、岩田正喜事務局長をご推挙いただき、事務局も原宿から平河町へと移転した。
1980年4月には連合の公益法人化を目指して名称を「日本造園コンサルタント協会」と改め法人化に向けた準備を進め、1985年4月1日付建設大臣の認可をいただき法人化が実現した。同年4月25日には赤坂プリンスホテルにおいて法人化披露パーテイを開催し。塩島大衆議院議員、木部佳昭建設大臣、大塩洋一郎住宅・都市整備公団総裁、豊蔵一建設相官房長らが出席されて盛大であった。
  また、つくば科学博覧会(1985年)では、大阪、沖縄の経験から緑関係の予算は会場建設費の中で独立させた。横浜国際博覧会(1989年)にもこの手法は応用され、建築主導の予算配分が改善された。つくば科学博覧会の開催を契機に、建設省と大阪市では、大阪花の博覧会の1990年開催を準備していた。その実現に向けて、「{社}日本造園コンサルタント協会」として作業チームを編成して構想案を作成して協力した。博覧会開催決定後は多くの協会会員が会場設計に従事して腕を振るった。
紀元2000年には、淡路島でジヤパンフローラ2000が開催されたが、この会場設計でも協会会員が活躍している。
このような国際的な催しが盛んになる以前、1983年から建設省の提唱で「全国都市緑化フェアー」が毎年全国持ち回りで開催されるようになっていた、これは、緑の国体にたとえられているが、この計画設計には、財団法人都市緑化基金のもとで、設計者達が腕を振るっていた。
1960年代から1980年代までの成長期を経て、各種の国際会議が開催された。特に1985年IFLA世界大会を再び日本(東京、神戸)で開催することになった。この大会時には、つくば科学博覧会開催中ということもあり日本の設計力を世界に示す良い機会であった。
 1985・5・27イフラ日本大会開会式で歓迎挨拶する佐藤昌会長
 高度経済成長の余波が続く1990年代前半は、世界各国のIFLA世界大会などへの積極的な参加が続けられ、日本の設計職能が広く世界の仲間に認知された時代でもあった。
このような状況の中で1990年女性造園家の会、1993年日本都市計画家協会、1995年7月日本デザイン機構、1995年7月IFLAジャパン、1995年9月日本ランドスケープフォーラム、等多くのグループがテーマを持って集まり活動を開始している。
しかし、1990年代後半は急速に設計対象となる事業が激減し設計者の苦難の時代が始まろうとしていた。
1996年6月社団法人日本造園コンサルタント協会」も名称を「社団法人ランドスケープコンサルタンツ協会」へと名前を改称し今日に至っている。
2000年にはIFLAアジア地区大会が淡路島で開催されたが、アジア地区だけでなく、ランドスケープアライアンスメンバーである。アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、オーストラリア等の要人も参加した。

職能業態の私的展望
設計者と職能の軌跡について、手元の資料と自らの体験記録をもとに20世紀後半について述べてきた。2000年以降の国立公園、景観・緑三法、指定管理者制度、3.11を受けて国土強靭化などと職能に関連する課題は多いが別の機会に譲るとして、私的な立場から、今後の職能について考えてみたい。
自らの半世紀に渡る設計者としての軌跡を振り返ったとき、20世紀と大きく異なる現象は、現代は電脳時代であることである。電脳時代の今は造園設計にかかわる情報も瞬時にして広く世界に普遍化し、造園設計が一つの専門に特定されない専門性を持つようになり、種々の専門の関係性の中に存在する総合性が求められる職能と化していることである。
今、設計界は、日本の「原風景」を構成する地域固有の自然・風土・歴史に根差した文化の生命性を捉える、生き物の技術が基軸であることを踏まえ、地域の生命系を根底に置きながら農業と工業、農村と都市など地域社会との問題を考えながら、自然・生命・人間のシステムを中心にすえて、諸科学の横断的な中で設計していく全的、生態学的発展と共振していく職能であることを前提に、将来を展望し挑戦する設計者の出現が期待できる時代になった。
なぜか?現在日本の設計者は世界の中で活躍できる資質と経験を積んだ者が多くなったことである。さらに国内的にも国土運営の中で基軸的職能として期待されている。
この期待に応えるためにCLAは時代のニーズに呼応できる柔軟な運営を実施して、内外に領域を拡大できる状況にある。今は具体的に東日本被災地で2020年ころを目途に国際震災復興博覧会開催を内外の関連団体に働き掛けて、新しいタイプの国際博覧会開催を提言していくことではないか、そこから21世紀に向けての骨太の展望が俯瞰できると確信する。

参考文献
①財団法人世界デザイン会議日本運営会(1960)世界デザイン会議報・第6・7号
②第9回IFLA日本大会実行委員会(1964)「日本の造園」
③小林治人(1982)都市計画協会報 「(社)日本造園コンサルタント協会について」
④(1985)「法人化披露パーテイー」日本造園タイムス第131号
⑤小林治人(1995)「設景」その発想と展開 マルモ出版
⑥(1995)「法人化10周年を祝う」ビジョンを策定環境緑化新聞第297号
⑦小林治人(2006)「造園設計家の群像と職能」(一社)日本公園緑地協会機関誌「公園緑地」VOL 67・4号34~36P
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# by harutokobayashi | 2013-09-30 09:25 | 職能論
とっとり花回廊
2013年9月27日とっとり花回廊、敷地面積50ha1990年代初頭TLAの計画・設計である。
建築の実施設計はアーキテクトファイブである。
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この巨大南瓜の写真までは小林治人の撮影である。
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チューリップとフラワードーム(写真提供「とっとり花回廊」)
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# by harutokobayashi | 2013-09-13 09:00 | 花の景
北京園林博物館
北京園林博覧会2013会場内に設置された園林博物館は見ごたえがある。
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# by harutokobayashi | 2013-08-08 04:45 | 庭園作品
アフリカと南欧の想いで
1973年3月、元上野動物園園長、林壽郎先生とアフリカの野生動物を学ぶためケニヤタンザニアをサファリした。アフリカの帰りにはナイロビから南仏ニースに飛んだ。ニースはカーニバルの翌日ということもあり祭りの後始末が大変な状況にあった。ニースに一泊し我々は、ニースからマルセイユまで南仏の海岸を走りそこで一泊、後はモンペリエ経由、当時フランス政府が力を入れてリゾート開発を進めていたラングドックルシオンに向かった。グランモット他カップダック等開発状況を見て回ったものである。
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ラングドックルシオンの中で最初に整備が進んだグランモット
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# by harutokobayashi | 2013-06-18 15:54 | 国際交流