博覧会の設景
「日英博覧会」
1910(明治43年)年5月14日より10月29日まで、ロンドン西部セパード・ブッシュにおいて開催された日英博覧会は、対英外交上の諸懸案を解決するために奔走した元駐英全権大使、時の外務大臣小村寿太郎に負うところが多いが、この博覧会開催までには次のような経緯があった。
明治39年8月の閣議で、明治45年に日本大博覧会(予算1000万円)の開催を決定し明治天皇に上奏した。明治40年3月31日、勅令102号で「日本大博覧会を明治45年4月1日~10月31日まで、東京府下に開設す」と定められた。直ちに米国ルーズベルト大統領に出展協力支援を連絡して協力の約束を取り付けていたが、明治41年9月2日勅令207号にて明治50年に延期を決定。その後取り止めになった。故に日英博覧会は日本大博覧会を縮小して実現した感もある。
この日英博覧会は、明治41年10月16閣議で決定したものであった(日本側経費180万円)が、美術建築の展示がもっとも好評を博したが、その成功の原因の一つに、東京美術学校校長正木直彦の努力に負うところが多かったといわれる。同校長の回想録の中で日本の国宝級の美術品を多数陳列するに際し、賛否両論行き悩んだのであったが、元老井上馨侯が国策的な立場から群議を廃してこれを断行させたことにより、多くの貴重な美術品が海を渡ることとなったが、この出展によって、英国、フランス、ドイツなどから多くの研究者が訪れることとなり、日本文化の粋を宣伝することができたという主旨が記されている。
これらの美術品の他、日本庭園の出展が行われたが、20万坪の敷地に、庭園を甲、2650坪(正式記録3020坪)乙、3295坪(正式記録3260坪)の2個所
庭園建設費用55159円、設計には、小沢圭次郎、本多錦吉郎、清水仁三郎、井沢半之助らが当たったが、甲園は小沢、乙園は本多案を基礎として、現地で井沢が監督をして作庭している。井沢は、前年12月から、翌年5月の会場まで出張し、植木職人3名を同道している。
建築は、農商務省技師榎本惣太郎および大工4名が派遣されていた。
このほか庭園模型が2基東京市から出展されたが真と草の庭で、12尺と7尺のものであった。


参考・引用文献:1)政治経済史学第181号(1981年)抜粋
明治43年開催の日英博覧会について(上中下各巻)
会場計画図・絵葉書 佐藤昌氏所蔵資料による
2)造園雑誌vol.58 NO3 酔園 小沢圭次郎 伝統庭園庇護・
継承に生きた「設景家」 小林治人
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by harutokobayashi | 2006-07-26 12:59 | 設景の思想
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